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	<title>素足で参れ &#124; 小黒世茂 &#187; エッセイ</title>
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		<title>梅染め</title>
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		<pubDate>Sat, 05 Mar 2016 00:40:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[高島市針江は水路のなかにある。 琵琶湖北西の安曇(あど)川(がわ)下流域にひろがる、扇状地のほぼまんなか。丹波高地と比良山系を源に、二〇〇年もの歳月を経た伏流水が噴き出ている。 水田では稲を育て、集落では生活用水となり、河口では葦帯を作って生き物を育み、大川を経て琵琶湖にそそがれる。この水系の地は、生水(しょうず)の郷と呼ばれる。 家にはそれぞれ川端(かばた)という洗い場がある。飯粒や野菜屑は川端の鯉などの淡水魚たちの大好物だ。おかげで人間の食べ残しから、水が腐ることは無い。「紅梅の木から染料を煮出しますよって、見に来られますか」そんな嬉しいお招きをもらった。生水をひきこむ民家を工房にするのは、友禅作家の山本晃さんだ。京都から鯖街道を通り、わざわざここまでやってくる。 工房の土間は昔ながらのたたき(赤土や砂利などに消石灰とにがりを混ぜて、たたき固めた床)でできていた。それは大気の湿度と同化して、湿ったり乾いたりする。裏口には冬も夏も同じ水温で流れる川端があり、ほどよい寸法に切られた紅梅の枝が、束にして漬けられてあった。 梅には水を浄化する作用があり、梅自身も腐りはしない。ことに軟水だと酸化を防ぐだけでなく、いつでも必要なときに色が抽出できるのだという。山本さんには試行錯誤も厭わず、独自のものを創りあげようとする、綿密な思考と純粋な眼差しがある。「これ、木自身が貯えている紅色ですよ」 水から引きあげた枝の、表皮の内側がしびれるばかりに赤かった。紅梅の霊魂とでもいいたくなるほどに、香気をたたえた紅色と艶やかな生気に満ちていた。ふいに胸の奥深くから、熱いものがこみあがってきた。木は花を咲かせるために養分を貯えて、ひたすら浅春を待つのである。「この色を私らがいただくんやからね」川端を介する水と大気の循環のなかで、友禅染めの原点にまでさかのぼれる梅染めを研究し続けてきた情熱が、「いただく」から伝わってくる。 私は白い絹糸が色をずんずん吸収して、薄紅色に変わるのを思い浮かべていた。山本さんは一九四三年、兵庫県生まれ。一九七〇年に京友禅士・天野木仙氏より独立、一九八〇年に古代色素研究家の前田雨城氏に師事、一九九〇年に「北野紅梅染」の技法を専門誌に発表している。 若い頃から生地やデザインの歴史的研究をしてきたが、伊勢左衛門貞頼著の『宗五大艸紙(そうごおぞうし)』(一五二八)のなかに、「加賀梅染」が記されてあるのを見つけた。そののち梅で染めたと推察される、古い裂や古文書などを見る機会を得た。古い裂には絵羽付け模様とみられる、手書き彩色の一部があった。残念なことに、古文書の「加賀から染め出す梅谷(屋)渋で染めた色は赤くして黄ばみ、梅木の香りがする」と記された梅染めの衣料は見ることはできなかった。まさに「幻の梅染め」なのだ。 京都の北野天満宮の由緒ある梅の、剪定された枝から染液を抽出したことから、「北野紅梅染」と称するようになった。 美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞなる　　　　　　　　　　菅原道真 道真の五歳の歌で、阿呼(あこ)は道真の幼名だ。この歌からは「北野紅梅染め」は、紅色のみをイメージする。だが意外に色幅は広い。若木は薄紅色に、老木は茶色に染まる。梅の成分の中にタンニンが含まれており、媒染剤によって深緑にも、黒色にも、あるいは黄色にも変化させられるという。また、梅の古木に付いた苔からは紫色が染めあがる。染めはそのような発見の蓄積であるが、底はなかなか深すぎる。そういったところに、霊性が感じられる。 色の抽出にとりかかった。川端の水に三年ばかり漬けておいた木を寸胴鍋に入れ、ひたひたの水をそそいで強火にかけた後、二時間以上とろ火で煮出しはじめた。その間、鍋の液は薄い茶色から濃い小豆色に変った。瞬時に美しく変化する色は神秘をまとって鮮やかだ。梅の廃材で作った媒染液を入れたとき、色がいちだんと冴えわたった。 抽出した液は冷ましてから、次の工程をこなすために京都にもち帰るという。さっきから、酸っぱい香りやらほの甘い香りやらが混ざりあい、土間にひろがっていた。 葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、磐(いは)根(がね)・木(こ)株(かぶ)・草葉(かやのは)も猶(なほ)し能(よ)く言語(ものい)ふ。夜(よる)は熛(ほ)火(へ)の若(もころ)に喧(おと)響(な)ひ、昼(ひる)は五月(さば)蠅(へ)如(な)す沸騰(わきあが)る　　(神代下・第九段) 『日本書紀』のなか、葦原中国には、自然の万物に霊魂のあったことが記される。「磐も木も草もよく物をいい、夜には火の穂が騒がしい音をたてて、昼は五月の蠅のように湧きあがってくる」という一文だ。古代人の耳は、木や水や火などの言語いをよく聞き分けていた。山本さんにも原始の耳があり、草木をはじめとして、水や火などの言語いを聞き分けながら、研究を続けている。梅は中国原産。『万葉集』には白梅のみが詠まれ、紅梅は平安時代に入ってからだ。 紅梅や比良の高ねに雨の雲　　　　与謝蕪村 江戸時代の俳人の蕪村は、近景に郷の紅梅を、遠景に比良山の峰にかかる雨雲を大気のなかに詠んだ。雨は春のことぶれだ。 紅梅は散りて二、三を残すのみ花の精めく紅(ま)猿子(しこ)来てゐる　　　　石川不二子 紅猿子は猿のように顔が赤い、アトリ科の鳥だ。風景の色彩に気品があふれる。 ながらみ書房『短歌往来』2014年1月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2016/03/2014.1-DSCN0481.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-646" title="2014.1-DSCN0481" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2016/03/2014.1-DSCN0481-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>高島市針江は水路のなかにある。</p>
<p>琵琶湖北西の安曇(あど)川(がわ)下流域にひろがる、扇状地のほぼまんなか。丹波高地と比良山系を源に、二〇〇年もの歳月を経た伏流水が噴き出ている。</p>
<p>水田では稲を育て、集落では生活用水となり、河口では葦帯を作って生き物を育み、大川を経て琵琶湖にそそがれる。この水系の地は、生水(しょうず)の郷と呼ばれる。</p>
<p>家にはそれぞれ川端(かばた)という洗い場がある。飯粒や野菜屑は川端の鯉などの淡水魚たちの大好物だ。おかげで人間の食べ残しから、水が腐ることは無い。「紅梅の木から染料を煮出しますよって、見に来られますか」そんな嬉しいお招きをもらった。生水をひきこむ民家を工房にするのは、友禅作家の山本晃さんだ。京都から鯖街道を通り、わざわざここまでやってくる。</p>
<p>工房の土間は昔ながらのたたき(赤土や砂利などに消石灰とにがりを混ぜて、たたき固めた床)でできていた。それは大気の湿度と同化して、湿ったり乾いたりする。裏口には冬も夏も同じ水温で流れる川端があり、ほどよい寸法に切られた紅梅の枝が、束にして漬けられてあった。</p>
<p>梅には水を浄化する作用があり、梅自身も腐りはしない。ことに軟水だと酸化を防ぐだけでなく、いつでも必要なときに色が抽出できるのだという。山本さんには試行錯誤も厭わず、独自のものを創りあげようとする、綿密な思考と純粋な眼差しがある。「これ、木自身が貯えている紅色ですよ」</p>
<p>水から引きあげた枝の、表皮の内側がしびれるばかりに赤かった。紅梅の霊魂とでもいいたくなるほどに、香気をたたえた紅色と艶やかな生気に満ちていた。ふいに胸の奥深くから、熱いものがこみあがってきた。木は花を咲かせるために養分を貯えて、ひたすら浅春を待つのである。「この色を私らがいただくんやからね」川端を介する水と大気の循環のなかで、友禅染めの原点にまでさかのぼれる梅染めを研究し続けてきた情熱が、「いただく」から伝わってくる。</p>
<p>私は白い絹糸が色をずんずん吸収して、薄紅色に変わるのを思い浮かべていた。山本さんは一九四三年、兵庫県生まれ。一九七〇年に京友禅士・天野木仙氏より独立、一九八〇年に古代色素研究家の前田雨城氏に師事、一九九〇年に「北野紅梅染」の技法を専門誌に発表している。</p>
<p>若い頃から生地やデザインの歴史的研究をしてきたが、伊勢左衛門貞頼著の『宗五大艸紙(そうごおぞうし)』(一五二八)のなかに、「加賀梅染」が記されてあるのを見つけた。そののち梅で染めたと推察される、古い裂や古文書などを見る機会を得た。古い裂には絵羽付け模様とみられる、手書き彩色の一部があった。残念なことに、古文書の「加賀から染め出す梅谷(屋)渋で染めた色は赤くして黄ばみ、梅木の香りがする」と記された梅染めの衣料は見ることはできなかった。まさに「幻の梅染め」なのだ。</p>
<p>京都の北野天満宮の由緒ある梅の、剪定された枝から染液を抽出したことから、「北野紅梅染」と称するようになった。</p>
<p><strong>美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞなる　　　　　　　　　　菅原道真</strong></p>
<p>道真の五歳の歌で、阿呼(あこ)は道真の幼名だ。この歌からは「北野紅梅染め」は、紅色のみをイメージする。だが意外に色幅は広い。若木は薄紅色に、老木は茶色に染まる。梅の成分の中にタンニンが含まれており、媒染剤によって深緑にも、黒色にも、あるいは黄色にも変化させられるという。また、梅の古木に付いた苔からは紫色が染めあがる。染めはそのような発見の蓄積であるが、底はなかなか深すぎる。そういったところに、霊性が感じられる。</p>
<p>色の抽出にとりかかった。川端の水に三年ばかり漬けておいた木を寸胴鍋に入れ、ひたひたの水をそそいで強火にかけた後、二時間以上とろ火で煮出しはじめた。その間、鍋の液は薄い茶色から濃い小豆色に変った。瞬時に美しく変化する色は神秘をまとって鮮やかだ。梅の廃材で作った媒染液を入れたとき、色がいちだんと冴えわたった。</p>
<p>抽出した液は冷ましてから、次の工程をこなすために京都にもち帰るという。さっきから、酸っぱい香りやらほの甘い香りやらが混ざりあい、土間にひろがっていた。</p>
<p><strong>葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、磐(いは)根(がね)・木(こ)株(かぶ)・草葉(かやのは)も猶(なほ)し能(よ)く言語(ものい)ふ。夜(よる)は熛(ほ)火(へ)の若(もころ)に喧(おと)響(な)ひ、昼(ひる)は五月(さば)蠅(へ)如(な)す沸騰(わきあが)る　　(神代下・第九段)</strong></p>
<p>『日本書紀』のなか、葦原中国には、自然の万物に霊魂のあったことが記される。「磐も木も草もよく物をいい、夜には火の穂が騒がしい音をたてて、昼は五月の蠅のように湧きあがってくる」という一文だ。古代人の耳は、木や水や火などの言語いをよく聞き分けていた。山本さんにも原始の耳があり、草木をはじめとして、水や火などの言語いを聞き分けながら、研究を続けている。梅は中国原産。『万葉集』には白梅のみが詠まれ、紅梅は平安時代に入ってからだ。</p>
<p><strong>紅梅や比良の高ねに雨の雲　　　　与謝蕪村</strong></p>
<p>江戸時代の俳人の蕪村は、近景に郷の紅梅を、遠景に比良山の峰にかかる雨雲を大気のなかに詠んだ。雨は春のことぶれだ。</p>
<p><strong>紅梅は散りて二、三を残すのみ花の精めく紅(ま)猿子(しこ)来てゐる　　　　石川不二子</strong></p>
<p>紅猿子は猿のように顔が赤い、アトリ科の鳥だ。風景の色彩に気品があふれる。</p>
<p>ながらみ書房『短歌往来』2014年1月号より</p>
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		<title>焼畑</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Jan 2016 06:42:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[「今年のヤボ焼きは八月三日。ちょっとでも雨降れば、一週間の延期です」 電話の報せに、運を天候にゆだねて椎葉村までやってきた。 宮崎県東臼杵郡椎葉村は九州の脊梁山脈の山間にあり、平家の落人伝説をまとう秘境の地。その奥地には今も、焼畑農法を守っている人がいる。山を知り尽くす、大正十三年生まれの椎葉クニ子さんだ。 クニ子さんは昭和二十二年に、夫の秀行さんと焼畑を始めた。平成九年に秀行さんが病に倒れてからは、長男の勝さんが継承している。その六十六年間、毎年かかさず焼畑をおこなってきた。 世界の熱帯域から温帯域にかけて伝わる農法の焼畑は、日本では四千年以上も前の縄文時代からあった。耕作や施肥を行わずに作物を栽培した後、一定の期間を放置し、地力の回復を待つ方法だ。木々には窒素・リン酸・カリが貯えられてあり、その灰は吸収のよい抜群の肥料となる。かつては、山のあちこちで煙があがっていたというが、昭和二十年には絶えていた。 八月三日は朝からかんかん照りだった。民宿のおじさんが車で、向山の予定地まで送ってくれた。薄暗い林道を進むと、アカメガシワ、ウバユリ、イタドリ、マタタビなどの植物が見える。崖の上や山畑の際に日本蜜蜂の巣箱が置かれ、鹿を狙う猟犬が勢いあまって道に飛びだすなど、私の知る熊野地方の山間と同じ風景があった。 急に視界が明るくなった。山の急斜面の一角が、切り開かれていたからだ。全部で三十五アールほどあるだろうか。去年から刈り倒した雑木に、新しく刈った雑草などが積まれてある。そして火絶(かだ)ち(延焼をふせぐ)のため、クロ(畦)という防火帯が予定地を囲んで作られてある。クロには充分に水がかけられてあった。 「また、迎えに来てやるけぇの」と、民宿のおじさんは私を置いて下山した。呆然と立つ私を促してくれたのは、草刈をしていたクニ子さんだった。 「遠くから来なさった？ヤボ焼きならこの上で始めるとよ」草刈鎌を杖に急斜面をずんずん登るクニ子さんの後を、喘ぎながらついて行った。 「人間の場合はね、親から子へ代替わりするけど、自然の植物の場合は、土地が代替わりするとよ。焼畑をして火付けをしなおすと、山が若返るからね」途中、そう話してくれた。 掃き清めたクロに御幣を立て、酒を供えた切株の祭壇に皆が集まった。消防や手伝いの人、体験学習の人など四十名ほどいた。「これよりこのヤボ(山)に、火を入れ申す。ヘビ、ワクド(蛙)、虫けらども、早々に立ち退きたまえ。山の神様、火の神様、どうぞ火の余らぬよう、また焼け残りのないよう、おん守りやってたもり申せ」 勝さんが呪(まじな)いをいう。火(・)の(・)余らぬ(・・・)よう(・・)は、延焼せぬようにの意味。ひとたび山火事が起これば、暮しの糧のすべてを失うことになる。 勝さんが予定地の上辺の風下に立ち、割竹の束を松明にして点火した。もし、山の下側から点火すれば、火が上に向かって走るだろう。火が走れば枯木の表面だけが焦げ、芯が焼け残る。火(ひ)退(ぞ)かし焼(焼き下ろす)でなければならないのだ。 バチバチ　パンパン　　バチバチバチッ　パーンッパーンッ 点火から二時間余り、枯木がまたたく間に黑い灰となった。上昇気流が起こり、煙がひとつにまとまって昇ってゆく。 「六年ぶりの、いい焼け具合じゃ」　　「火の神や風の神のおかげだからね」 ダイナミックであり、繊細でもあるこの焼畑農法。生きることの知恵と大自然への畏敬の心が、ひとつの形として継承されてきたことに驚く。「森(・)は守り(・・)に通じ、林(・)は生やし(・・・)に通ずる」という、言葉をかみしめていた。このあとは昼食、午後からは蕎麦を蒔く。消防の人だけを残し、いったん下山した。 蕎麦はこの地ではソマという。ヤボを守ることは、種を守ることと同じ。よく実って味も濃い蕎麦を選り分けながら、何百年も作り続けられてきた地(じ)ソマ(在来種)である。そのために六十六年も焼畑を繰り返してきたといっても、過言ではないだろう。自給自足の底力である。 蕎麦は地に熱のあるうちに蒔く。腰につけた籠から種を蒔く姿は、ミレーの絵画「種を蒔く人」そのままだ。蒔いたすぐ後から、スズ竹の束で掃き、灰をまぶせば発芽する。おおわく一年目は蕎麦、二年目は稗や粟、三年目は小豆、四年目は大豆を蒔き、それ以降は森に返す。そして三十年間、放置する。 さねさし相(さが)武(む)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも　　　　弟橘媛 『古事記』中巻・景行天皇の条に、倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の東国征伐のおり、走(はしり)水(みず)の海で后の弟橘比売命が海神の怒りを鎮めようと自ら入水した。そのときに詠んだ別れの歌だ。さねさしは相武にかかる枕詞。「相武(相模)の野に燃え立つ火の中で、わたしのことを心配をしてくださった貴方よ」という意味。相武の国造にだまされ、火攻めにあったときのことを指している。 歴史物語から離れて読めば、「春の野焼の火の中で私に言い寄った貴方よ」となり、古代の農民女性の恋歌とも解せよう。 燃えさかる野火の炎を生けるもの捕らふるごとく人囲みをり　　　　　志垣澄幸 原始から人間は火をあおり、なだめつつ手の内に治めてきた。自然のなかで、生きる厳しさを感じさせる歌だ。 ながらみ書房『短歌往来』2013年10月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2016/01/2013.10-DSCN0269.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-638" title="2013.10-DSCN0269焼畑" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2016/01/2013.10-DSCN0269-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>「今年のヤボ焼きは八月三日。ちょっとでも雨降れば、一週間の延期です」</p>
<p>電話の報せに、運を天候にゆだねて椎葉村までやってきた。</p>
<p>宮崎県東臼杵郡椎葉村は九州の脊梁山脈の山間にあり、平家の落人伝説をまとう秘境の地。その奥地には今も、焼畑農法を守っている人がいる。山を知り尽くす、大正十三年生まれの椎葉クニ子さんだ。</p>
<p>クニ子さんは昭和二十二年に、夫の秀行さんと焼畑を始めた。平成九年に秀行さんが病に倒れてからは、長男の勝さんが継承している。その六十六年間、毎年かかさず焼畑をおこなってきた。</p>
<p>世界の熱帯域から温帯域にかけて伝わる農法の焼畑は、日本では四千年以上も前の縄文時代からあった。耕作や施肥を行わずに作物を栽培した後、一定の期間を放置し、地力の回復を待つ方法だ。木々には窒素・リン酸・カリが貯えられてあり、その灰は吸収のよい抜群の肥料となる。かつては、山のあちこちで煙があがっていたというが、昭和二十年には絶えていた。</p>
<p>八月三日は朝からかんかん照りだった。民宿のおじさんが車で、向山の予定地まで送ってくれた。薄暗い林道を進むと、アカメガシワ、ウバユリ、イタドリ、マタタビなどの植物が見える。崖の上や山畑の際に日本蜜蜂の巣箱が置かれ、鹿を狙う猟犬が勢いあまって道に飛びだすなど、私の知る熊野地方の山間と同じ風景があった。</p>
<p>急に視界が明るくなった。山の急斜面の一角が、切り開かれていたからだ。全部で三十五アールほどあるだろうか。去年から刈り倒した雑木に、新しく刈った雑草などが積まれてある。そして火絶(かだ)ち(延焼をふせぐ)のため、クロ(畦)という防火帯が予定地を囲んで作られてある。クロには充分に水がかけられてあった。</p>
<p>「また、迎えに来てやるけぇの」と、民宿のおじさんは私を置いて下山した。呆然と立つ私を促してくれたのは、草刈をしていたクニ子さんだった。</p>
<p>「遠くから来なさった？ヤボ焼きならこの上で始めるとよ」草刈鎌を杖に急斜面をずんずん登るクニ子さんの後を、喘ぎながらついて行った。</p>
<p>「人間の場合はね、親から子へ代替わりするけど、自然の植物の場合は、土地が代替わりするとよ。焼畑をして火付けをしなおすと、山が若返るからね」途中、そう話してくれた。</p>
<p>掃き清めたクロに御幣を立て、酒を供えた切株の祭壇に皆が集まった。消防や手伝いの人、体験学習の人など四十名ほどいた。「これよりこのヤボ(山)に、火を入れ申す。ヘビ、ワクド(蛙)、虫けらども、早々に立ち退きたまえ。山の神様、火の神様、どうぞ火の余らぬよう、また焼け残りのないよう、おん守りやってたもり申せ」</p>
<p>勝さんが呪(まじな)いをいう。火(・)の(・)余らぬ(・・・)よう(・・)は、延焼せぬようにの意味。ひとたび山火事が起これば、暮しの糧のすべてを失うことになる。</p>
<p>勝さんが予定地の上辺の風下に立ち、割竹の束を松明にして点火した。もし、山の下側から点火すれば、火が上に向かって走るだろう。火が走れば枯木の表面だけが焦げ、芯が焼け残る。火(ひ)退(ぞ)かし焼(焼き下ろす)でなければならないのだ。</p>
<p>バチバチ　パンパン　　バチバチバチッ　パーンッパーンッ</p>
<p>点火から二時間余り、枯木がまたたく間に黑い灰となった。上昇気流が起こり、煙がひとつにまとまって昇ってゆく。</p>
<p>「六年ぶりの、いい焼け具合じゃ」　　「火の神や風の神のおかげだからね」</p>
<p>ダイナミックであり、繊細でもあるこの焼畑農法。生きることの知恵と大自然への畏敬の心が、ひとつの形として継承されてきたことに驚く。「森(・)は守り(・・)に通じ、林(・)は生やし(・・・)に通ずる」という、言葉をかみしめていた。このあとは昼食、午後からは蕎麦を蒔く。消防の人だけを残し、いったん下山した。</p>
<p>蕎麦はこの地ではソマという。ヤボを守ることは、種を守ることと同じ。よく実って味も濃い蕎麦を選り分けながら、何百年も作り続けられてきた地(じ)ソマ(在来種)である。そのために六十六年も焼畑を繰り返してきたといっても、過言ではないだろう。自給自足の底力である。</p>
<p>蕎麦は地に熱のあるうちに蒔く。腰につけた籠から種を蒔く姿は、ミレーの絵画「種を蒔く人」そのままだ。蒔いたすぐ後から、スズ竹の束で掃き、灰をまぶせば発芽する。おおわく一年目は蕎麦、二年目は稗や粟、三年目は小豆、四年目は大豆を蒔き、それ以降は森に返す。そして三十年間、放置する。</p>
<p><strong>さねさし相(さが)武(む)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に</strong><strong>立ちて問ひし君はも　　　　弟橘媛</strong></p>
<p>『古事記』中巻・景行天皇の条に、倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の東国征伐のおり、走(はしり)水(みず)の海で后の弟橘比売命が海神の怒りを鎮めようと自ら入水した。そのときに詠んだ別れの歌だ。さねさしは相武にかかる枕詞。「相武(相模)の野に燃え立つ火の中で、わたしのことを心配をしてくださった貴方よ」という意味。相武の国造にだまされ、火攻めにあったときのことを指している。</p>
<p>歴史物語から離れて読めば、「春の野焼の火の中で私に言い寄った貴方よ」となり、古代の農民女性の恋歌とも解せよう。</p>
<p><strong>燃えさかる野火の炎を生けるもの捕らふるごとく人囲みをり　　　　　志垣澄幸</strong></p>
<p>原始から人間は火をあおり、なだめつつ手の内に治めてきた。自然のなかで、生きる厳しさを感じさせる歌だ。</p>
<p>ながらみ書房『短歌往来』2013年10月号より</p>
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		<title>藻塩</title>
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		<pubDate>Sat, 05 Dec 2015 04:15:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[夏野菜が美味しくなった。トマトは甘味が濃く、胡瓜は噛むと水気が爆ぜ、レタスはちぎるとわりわり音がする。皿に盛りあげた夏野菜に少々塩をふりかけて頬張れば、暑さを乗りきる力が湧きあがる。 塩は味の決め手。台所にあった雪塩、ヒマラヤの岩塩、海人の藻塩(もしお)、あらしおなどを順に試してみたが、ふり過ぎて味覚があやしくなった。それでもゆったりとした海の香と濃厚な旨味が舌にさらっととける、薄茶色の藻塩が印象に残った。 ・・・松(まつ)帆(ほ)の浦に　朝凪(あさなぎ)に　玉藻刈りつつ　夕凪に　藻塩焼きつつ　海(あま)少(おと)女(め)　ありとは聞けど　見に行かむ　・・・ 笠金村『万葉集』(巻六・九三五) 「・・・松帆の浦では朝凪に玉藻を刈り、夕凪に藻塩を焼く漁師の少女がいると聞く。だが、逢いに行こうにも・・・」との意味。 神亀三年(西暦七二六年)九月十五日、聖武天皇の播磨の国印南野への行幸のおりに詠まれた。「松帆にいるという藻を刈る美しい娘への憧れ」と「天皇の見納める土地への讃美」がこめられた長歌だ。 本州にもっとも近い淡路島の最北端の、明石海峡に面した岬がその場所。激しい潮流を挟んで明石の街を眺めているうちに、潮風に全身がじっとり塩たれた。 古くより松帆は製塩が盛んだった。朝凪のころ採った藻を海岸で干し、夕凪のころ火を焚き、藻の水分を蒸発させて塩を採った。この凪の時間にあがる真直ぐな煙に、旅情をなぐさめたのではなかろうか。あわせてここには、九月になると鷹柱が立つ。渡り鳥が空高く螺旋状に舞いあがり、一気に南へ渡ろうとするポイントでもある。だが、今は製塩はしていない。 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 藤原定家『新勅撰集』(恋三・八四九) 「待っても来ぬ人を待つ私は松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように、毎日身も焦がれるような思いでいるのです」と熱い感情で詠む。定家は先の長歌を本歌取りにし、百人一首にも自選した。松(・)に待(・)つ(・)を掛け、恋に身を焦がすことと、藻塩の焦げることを掛けている。 藻はホンダワラのこと。遺跡から出土した製塩土器に、藻の空気袋の痕跡があることからもわかる。万葉集などにはなのり(・・・)そ(・)と詠みこまれた。日本では岩塩が採れないため、古代から海水を使って製塩されてきたが、どんな風にホンダワラが使われたのだろう。 古代製塩法を蘇らせた人たちがいる。広島県呉市蒲刈町の今は亡き松浦宣秀さんをはじめに、石井泉さんと後に結成された「藻塩の会」のメンバーだ。上蒲刈島の南西部では古墳時代から、日本の塩作りの原点ともいうべき藻塩焼きが行われていたことから研究し、次の製造法を確立させた。 ①藻採集②藻の乾燥保存③土器製作④土器素焼き⑤炉用石集め⑥石敷炉づくり⑦燃料集め⑧濃縮⑨藻焼き⑩上澄み採り⑪煮つめるホンダワラを天日で乾燥させ、表面に出た塩の結晶を甕(かめ)に蓄えた海水で洗い出し、塩分を海水のほうに移す作業を繰り返す採鹹(さいかん)作業をする。そのホンダワラを焼いた灰を甕の海水に溶かすと、塩分やヨードなどの養分が出る。灰を布で濾し出して四倍の濃度の鹹(かん)水(すい)を作る。それを小さな土器に分け移し、煎熬(せんごう)という煮詰め作業をする。焦げ付かないように水分を飛ばすと、海藻が溶けこんだ薄茶色の藻塩が焼きあがる。 コツとして海水を煮つめる前、できるだけ水分を除いておけば早く塩ができる。ホンダワラを使えば水分が蒸発しやすく、甕に塩を残すための効率がいいこともわかった。 私が訪れたとき、体験学習の最中だった。「藻塩の会」のメンバーは塩焼きの最後の工程の煎熬(せんごう)を児童に教えつつ、こまかく指導をしていた。まさに手塩にかけた学習を見学させてもらった。 塩が『古事記』に記述される初めは、上巻の「伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)」の国生みの場面。二柱の夫婦神が天界から矛をさし下ろし、こうろこうろとかき鳴らして引きあげるとき、矛の先から塩のしずくが積もって島となったのが、淤(お)能(の)碁(ご)呂(ろ)島(しま)であった。 上巻の「海(うみ)幸彦(さちびこ)と山(やま)幸彦(さちびこ)」にも塩椎(しおつちの)神(かみ)(潮流を司る老翁)が小船を作り火(ほ)遠理(をりの)命(みこと)(海幸彦)を乗せて、海神・綿津(わたつ)見(み)神の宮殿に見送った。そこで、火遠理命は海神から塩盈(しほみつ)珠(たま)(満潮にさせる珠)と塩乾(しほふる)珠(たま)(干潮にさせる珠)の二つを授かった。 このように神話では、塩(・)は神聖な場面や祓いや浄化のおりによくあらわれる。ここで、塩の歴史にも少し触れたい。 古代から江戸時代末期まで、手作りに近い伝統的製塩だった。海水から作る方法は生産量が少ないので、貴重品として売買された。 明治時代、近代化とともに工業用塩化ナトリウム(工場で使う塩)の需要が増えた。日清戦争後、価格高騰で輸入に頼り、国内塩業が危うくなった。日露戦争時、戦費調達を第一目的に専売制を施行。塩不足は第二次大戦後も続いた。その後、生産量のあがる流下方式を開発。一九七一年に塩田を整理しイオン交換膜方式へ転換、工場生産へ移行した。 一九九七年(平成九年)に専売制度が廃止され、二〇〇二年（平成十四年）に製造販売が自由になり、地域の特性を活かした塩が各地域で生産されるようになった。 かつて厨には壺類が並べてあった。塩壺には塩が砂糖壺には砂糖がいっぱいあると、家中にゆとりの気分が漂ったものである。 「塩壺には塩をみたして置きたいね」父の怒りも遠くなりたり　　　　山崎方代 ながらみ書房『短歌往来』2013年9月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/12/2013.9-IMGP0002.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-630" title="2013.9-IMGP0002" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/12/2013.9-IMGP0002-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a> 夏野菜が美味しくなった。トマトは甘味が濃く、胡瓜は噛むと水気が爆ぜ、レタスはちぎるとわりわり音がする。皿に盛りあげた夏野菜に少々塩をふりかけて頬張れば、暑さを乗りきる力が湧きあがる。</p>
<p>塩は味の決め手。台所にあった雪塩、ヒマラヤの岩塩、海人の藻塩(もしお)、あらしおなどを順に試してみたが、ふり過ぎて味覚があやしくなった。それでもゆったりとした海の香と濃厚な旨味が舌にさらっととける、薄茶色の藻塩が印象に残った。</p>
<p><strong>・・・松(まつ)帆(ほ)の浦に　朝凪(あさなぎ)に　玉藻刈りつつ　夕凪に　藻塩焼きつつ　海(あま)少(おと)女(め)　ありとは聞けど　見に行かむ　・・・</strong></p>
<p><strong></strong><span style="font-weight: bold;"> 笠金村『万葉集』(巻六・九三五)</span></p>
<p>「・・・松帆の浦では朝凪に玉藻を刈り、夕凪に藻塩を焼く漁師の少女がいると聞く。だが、逢いに行こうにも・・・」との意味。</p>
<p>神亀三年(西暦七二六年)九月十五日、聖武天皇の播磨の国印南野への行幸のおりに詠まれた。「松帆にいるという藻を刈る美しい娘への憧れ」と「天皇の見納める土地への讃美」がこめられた長歌だ。</p>
<p>本州にもっとも近い淡路島の最北端の、明石海峡に面した岬がその場所。激しい潮流を挟んで明石の街を眺めているうちに、潮風に全身がじっとり塩たれた。</p>
<p>古くより松帆は製塩が盛んだった。朝凪のころ採った藻を海岸で干し、夕凪のころ火を焚き、藻の水分を蒸発させて塩を採った。この凪の時間にあがる真直ぐな煙に、旅情をなぐさめたのではなかろうか。あわせてここには、九月になると鷹柱が立つ。渡り鳥が空高く螺旋状に舞いあがり、一気に南へ渡ろうとするポイントでもある。だが、今は製塩はしていない。</p>
<p><strong> 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ</strong></p>
<p><strong> 藤原定家『新勅撰集』(恋三・八四九)</strong></p>
<p>「待っても来ぬ人を待つ私は松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように、毎日身も焦がれるような思いでいるのです」と熱い感情で詠む。定家は先の長歌を本歌取りにし、百人一首にも自選した。松(・)に待(・)つ(・)を掛け、恋に身を焦がすことと、藻塩の焦げることを掛けている。</p>
<p>藻はホンダワラのこと。遺跡から出土した製塩土器に、藻の空気袋の痕跡があることからもわかる。万葉集などにはなのり(・・・)そ(・)と詠みこまれた。日本では岩塩が採れないため、古代から海水を使って製塩されてきたが、どんな風にホンダワラが使われたのだろう。</p>
<p>古代製塩法を蘇らせた人たちがいる。広島県呉市蒲刈町の今は亡き松浦宣秀さんをはじめに、石井泉さんと後に結成された「藻塩の会」のメンバーだ。上蒲刈島の南西部では古墳時代から、日本の塩作りの原点ともいうべき藻塩焼きが行われていたことから研究し、次の製造法を確立させた。</p>
<p>①藻採集②藻の乾燥保存③土器製作④土器素焼き⑤炉用石集め⑥石敷炉づくり⑦燃料集め⑧濃縮⑨藻焼き⑩上澄み採り⑪煮つめるホンダワラを天日で乾燥させ、表面に出た塩の結晶を甕(かめ)に蓄えた海水で洗い出し、塩分を海水のほうに移す作業を繰り返す採鹹(さいかん)作業をする。そのホンダワラを焼いた灰を甕の海水に溶かすと、塩分やヨードなどの養分が出る。灰を布で濾し出して四倍の濃度の鹹(かん)水(すい)を作る。それを小さな土器に分け移し、煎熬(せんごう)という煮詰め作業をする。焦げ付かないように水分を飛ばすと、海藻が溶けこんだ薄茶色の藻塩が焼きあがる。</p>
<p>コツとして海水を煮つめる前、できるだけ水分を除いておけば早く塩ができる。ホンダワラを使えば水分が蒸発しやすく、甕に塩を残すための効率がいいこともわかった。</p>
<p>私が訪れたとき、体験学習の最中だった。「藻塩の会」のメンバーは塩焼きの最後の工程の煎熬(せんごう)を児童に教えつつ、こまかく指導をしていた。まさに手塩にかけた学習を見学させてもらった。</p>
<p>塩が『古事記』に記述される初めは、上巻の「伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)」の国生みの場面。二柱の夫婦神が天界から矛をさし下ろし、こうろこうろとかき鳴らして引きあげるとき、矛の先から塩のしずくが積もって島となったのが、淤(お)能(の)碁(ご)呂(ろ)島(しま)であった。</p>
<p>上巻の「海(うみ)幸彦(さちびこ)と山(やま)幸彦(さちびこ)」にも塩椎(しおつちの)神(かみ)(潮流を司る老翁)が小船を作り火(ほ)遠理(をりの)命(みこと)(海幸彦)を乗せて、海神・綿津(わたつ)見(み)神の宮殿に見送った。そこで、火遠理命は海神から塩盈(しほみつ)珠(たま)(満潮にさせる珠)と塩乾(しほふる)珠(たま)(干潮にさせる珠)の二つを授かった。</p>
<p>このように神話では、塩(・)は神聖な場面や祓いや浄化のおりによくあらわれる。ここで、塩の歴史にも少し触れたい。</p>
<p>古代から江戸時代末期まで、手作りに近い伝統的製塩だった。海水から作る方法は生産量が少ないので、貴重品として売買された。</p>
<p>明治時代、近代化とともに工業用塩化ナトリウム(工場で使う塩)の需要が増えた。日清戦争後、価格高騰で輸入に頼り、国内塩業が危うくなった。日露戦争時、戦費調達を第一目的に専売制を施行。塩不足は第二次大戦後も続いた。その後、生産量のあがる流下方式を開発。一九七一年に塩田を整理しイオン交換膜方式へ転換、工場生産へ移行した。</p>
<p>一九九七年(平成九年)に専売制度が廃止され、二〇〇二年（平成十四年）に製造販売が自由になり、地域の特性を活かした塩が各地域で生産されるようになった。</p>
<p>かつて厨には壺類が並べてあった。塩壺には塩が砂糖壺には砂糖がいっぱいあると、家中にゆとりの気分が漂ったものである。</p>
<p><strong> 「塩壺には塩をみたして置きたいね」父の怒りも遠くなりたり　　　　山崎方代</strong></p>
<p>ながらみ書房『短歌往来』2013年9月号より</p>
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		<title>鰒</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Oct 2015 10:16:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[鰒(あわび)は水深二十～五十メートルあたりで、荒(あら)布(め)や若(わか)布(め)や昆布などの海藻類を食べて育つ。主として夜行性で、昼は岩の間や砂に潜って過ごす。栄螺(さざえ)は三角に盛り上がっているが、鰒は平たく周囲にまぎれて見つけにくい。 私の生家は紀淡海峡の海辺にあった。近所には磯海女が多くいて、天草や若布などを主に採るのだが、まれに栄螺や鰒を見つけることもあった。浅瀬で遊ぶ私を呼び、流木を集めて栄螺を焼き、鰒は石で殻を叩き割り、海水で洗ってからスライスしてくれたことがあった。栄螺の肝には濃厚な味の出汁と苦味があって、たくさんは食べられないが鰒は違った。噛んだ時のこりっとした感触と、口に広がる甘味は格別だ。この黒潮のエキスを頬張る醍醐味は、忘れられるものではない。 鰒は正面から近づくと素早く逃げる。追いかけても捕まえられるものではないという。岩礁の谷間などに注意し、見つけたら手早く道具の磯ノミで岩からはがし獲る。 現在、海辺の子供達でさえ磯遊びなどは、しなくなった。海の汚染、磯場の激減などもあり、自然から遠くなってしまったことはとても残念に思う。貝を海水で洗うとき、虎魚(おこぜ)に刺されてびりびり手が疼いたのも、私の大切な懐かしい痛みの記憶となっている。 こんな遊び場が万葉歌の飽等の浜(現・加太の田倉崎と推定)だったと、大人になってから知った。 紀の国の飽(あく)等(ら)の浜の忘れ貝われは忘れじ年は経(へ)ぬとも 作者不詳『万葉集』(巻十一・二七九五） 「紀の国の飽等の浜にある忘れ貝(・・・)の忘れ(・・)ではないが、私はあなたを忘れまい」との意味。 忘れ貝とは、二枚貝から離れたもう一片のことで、それを拾うと恋を忘れるという意味がこめられる。 五月に入ると、三重県の志摩半島の国崎(くざき)町では鰒猟が解禁になる。 『古事記』『日本書紀』にも登場する倭姫命(古墳時代以前の皇族)がこの地に巡行したとき、お弁という海女が鰒を献上した伝承が残る。地元の海女たちが漁期の初めに参拝するのは、海女の元祖のお弁が祀られる海士(あま)潜女(かずきめ)神社だ。人間の顔ほどある大きな鰒の殻も飾られてあり、これにはぎょっとした。鰒の主(ぬし)ともいえる風体で、岩礁にくっついていたことを想像すれば、喜びよりも畏れの感情が湧きあがる。 毎年、旧暦の六月一日にはこの海士潜女神社の御潜(みかずき)神事がある。朝、鎧崎(よろいざき)御料(ごりょう)鰒(あわび)調整所(ちょうせいじょ)近くの前(・)の(・)浜(・)に集まった四十名ほどの海女は、伝統の白装束をつけ、太鼓を合図に一斉に漁獲に向かうのだ。やがて、獲物が浜揚げされると調整所に運ばれ、土地の古老（八十代)や大老（七十代）たちによって熨斗(のし)鰒(あわび)に加工される。果物の皮みたいに薄く剥き、天日で乾燥させ、更に熨斗（竹で伸ばす）たもので、伊勢神宮に御饌料(みけりょう)として奉納するのである。その量は年間二千個、七百キロにもなるという、二千年近く続けられてきた神事だ。 熨斗は私たちの身近でずいぶん使用されてきた。祝儀袋や水引の右上に付いた赤い飾りの芯部分といえば理解できるだろう。熨斗紙の起源はここからきた。鰒は高級品のため、今はほとんど印刷物になってしまっている。 古老たちの手さばきを伺いながら、取りのぞいた肝や剥いたものをいただき、舌に乗せればその美味しさに自ずと笑えてくる。 鰒はミミガイ科の巻貝の総称だ。外見から雌雄の別はわからないが、生殖腺の色を見ると緑が雌で、白っぽいのが雄だという。別箇に見ると判断しにくいが、並べるとよくわかった。午後の神事には、海女によってめでたく鰒のつがいが奉納された。 前(・)の(・)浜(・)は普段は禁猟区で、神事のみに許される漁場だ。初物や大物を献上して豊漁と安全を願う民俗的な慣わしと、伊勢神宮への献上といった支配性の二つの観念が結びあい、晴れやかななかにも気持ちの引き締まる光景が見られる。 狛犬をなでて、足の痛みが軽くなるよう祈るお婆さんがいた。最近まで潜っていたが、身体の具合が改善せずやめたという。現代の海女の最高齢は八十歳代、新人は四十歳代、六十歳代のころは熟達期で、とても充実していたと話してくれた。 まことに女性がきびきびと働く。そういった気風は、昭和四六年刊の岩田準一著『志摩の海女』のなかにも記録されている。一家にあっては温順勤勉な妻であり、未明に起き出るとすぐご飯のしたく、大勢の子供の世話、半農半漁なので畠の見廻り、それらを一人でやってのけた後、浜の仕事に出かける。 こんな女性の働き振りに対し、男性は漁と農、それにトマエ役(海女潜水)の補佐をするが、村によっては男性は朝から長い着物で頭をポマードで分け固め、菓子屋の店先で新聞をひろげたり、碁将棋をしているのを見かける。それでも女性は村の風習だと黙認する。古くから「夫(テー)ひとり養えんようでは妻(ヤヤ)の資格がない」といってのけたほどで、誇り高い海女気質がそうさせて来たのだろうという。 乙女たちが熨斗状態のものを法師に渡し、海に放して生き返らせて欲しいと戯れに呪願を頼んだ時の歌がある。 海(わた)若(つみ)の沖(おき)に持ち行きて放つともうれむそこれがよみがへりなむ 通観(つうくわん)法師『万葉集』(巻三・三ニ七） 「大海の沖に持っていって放生したとしても、どうしてこんなものが生き返ろうか」との意味。困惑する僧の顔が見えるようだ。 房総の海を華やかに彩る現代短歌がある。 鮑、ことにうまき弥生の桜鯛房総に来て舌孝行す　　　　　　　　　　田村広志 （写真撮影：平賀大蔵） ながらみ書房『短歌往来』2013年7月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/10/2013.7kunisakinoama2.jpg"><img title="海女たち" class="alignleft size-thumbnail wp-image-617" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/10/2013.7kunisakinoama2-150x150.jpg" alt="海女たち" width="150" height="150" /></a> 鰒(あわび)は水深二十～五十メートルあたりで、荒(あら)布(め)や若(わか)布(め)や昆布などの海藻類を食べて育つ。主として夜行性で、昼は岩の間や砂に潜って過ごす。栄螺(さざえ)は三角に盛り上がっているが、鰒は平たく周囲にまぎれて見つけにくい。<br />
私の生家は紀淡海峡の海辺にあった。近所には磯海女が多くいて、天草や若布などを主に採るのだが、まれに栄螺や鰒を見つけることもあった。浅瀬で遊ぶ私を呼び、流木を集めて栄螺を焼き、鰒は石で殻を叩き割り、海水で洗ってからスライスしてくれたことがあった。栄螺の肝には濃厚な味の出汁と苦味があって、たくさんは食べられないが鰒は違った。噛んだ時のこりっとした感触と、口に広がる甘味は格別だ。この黒潮のエキスを頬張る醍醐味は、忘れられるものではない。<br />
鰒は正面から近づくと素早く逃げる。追いかけても捕まえられるものではないという。岩礁の谷間などに注意し、見つけたら手早く道具の磯ノミで岩からはがし獲る。<br />
現在、海辺の子供達でさえ磯遊びなどは、しなくなった。海の汚染、磯場の激減などもあり、自然から遠くなってしまったことはとても残念に思う。貝を海水で洗うとき、虎魚(おこぜ)に刺されてびりびり手が疼いたのも、私の大切な懐かしい痛みの記憶となっている。<br />
こんな遊び場が万葉歌の飽等の浜(現・加太の田倉崎と推定)だったと、大人になってから知った。</p>
<p><strong> 紀の国の飽(あく)等(ら)の浜の忘れ貝われは忘れじ年は経(へ)ぬとも<br />
作者不詳『万葉集』(巻十一・二七九五）</strong></p>
<p>「紀の国の飽等の浜にある忘れ貝(・・・)の忘れ(・・)ではないが、私はあなたを忘れまい」との意味。<br />
忘れ貝とは、二枚貝から離れたもう一片のことで、それを拾うと恋を忘れるという意味がこめられる。<br />
五月に入ると、三重県の志摩半島の国崎(くざき)町では鰒猟が解禁になる。<br />
『古事記』『日本書紀』にも登場する倭姫命(古墳時代以前の皇族)がこの地に巡行したとき、お弁という海女が鰒を献上した伝承が残る。地元の海女たちが漁期の初めに参拝するのは、海女の元祖のお弁が祀られる海士(あま)潜女(かずきめ)神社だ。人間の顔ほどある大きな鰒の殻も飾られてあり、これにはぎょっとした。鰒の主(ぬし)ともいえる風体で、岩礁にくっついていたことを想像すれば、喜びよりも畏れの感情が湧きあがる。<br />
毎年、旧暦の六月一日にはこの海士潜女神社の御潜(みかずき)神事がある。朝、鎧崎(よろいざき)御料(ごりょう)鰒(あわび)調整所(ちょうせいじょ)近くの前(・)の(・)浜(・)に集まった四十名ほどの海女は、伝統の白装束をつけ、太鼓を合図に一斉に漁獲に向かうのだ。やがて、獲物が浜揚げされると調整所に運ばれ、土地の古老（八十代)や大老（七十代）たちによって熨斗(のし)鰒(あわび)に加工される。果物の皮みたいに薄く剥き、天日で乾燥させ、更に熨斗（竹で伸ばす）たもので、伊勢神宮に御饌料(みけりょう)として奉納するのである。その量は年間二千個、七百キロにもなるという、二千年近く続けられてきた神事だ。<br />
熨斗は私たちの身近でずいぶん使用されてきた。祝儀袋や水引の右上に付いた赤い飾りの芯部分といえば理解できるだろう。熨斗紙の起源はここからきた。鰒は高級品のため、今はほとんど印刷物になってしまっている。<br />
古老たちの手さばきを伺いながら、取りのぞいた肝や剥いたものをいただき、舌に乗せればその美味しさに自ずと笑えてくる。<br />
鰒はミミガイ科の巻貝の総称だ。外見から雌雄の別はわからないが、生殖腺の色を見ると緑が雌で、白っぽいのが雄だという。別箇に見ると判断しにくいが、並べるとよくわかった。午後の神事には、海女によってめでたく鰒のつがいが奉納された。<br />
前(・)の(・)浜(・)は普段は禁猟区で、神事のみに許される漁場だ。初物や大物を献上して豊漁と安全を願う民俗的な慣わしと、伊勢神宮への献上といった支配性の二つの観念が結びあい、晴れやかななかにも気持ちの引き締まる光景が見られる。<br />
狛犬をなでて、足の痛みが軽くなるよう祈るお婆さんがいた。最近まで潜っていたが、身体の具合が改善せずやめたという。現代の海女の最高齢は八十歳代、新人は四十歳代、六十歳代のころは熟達期で、とても充実していたと話してくれた。<br />
まことに女性がきびきびと働く。そういった気風は、昭和四六年刊の岩田準一著『志摩の海女』のなかにも記録されている。一家にあっては温順勤勉な妻であり、未明に起き出るとすぐご飯のしたく、大勢の子供の世話、半農半漁なので畠の見廻り、それらを一人でやってのけた後、浜の仕事に出かける。<br />
こんな女性の働き振りに対し、男性は漁と農、それにトマエ役(海女潜水)の補佐をするが、村によっては男性は朝から長い着物で頭をポマードで分け固め、菓子屋の店先で新聞をひろげたり、碁将棋をしているのを見かける。それでも女性は村の風習だと黙認する。古くから「夫(テー)ひとり養えんようでは妻(ヤヤ)の資格がない」といってのけたほどで、誇り高い海女気質がそうさせて来たのだろうという。</p>
<p>乙女たちが熨斗状態のものを法師に渡し、海に放して生き返らせて欲しいと戯れに呪願を頼んだ時の歌がある。</p>
<p><strong>海(わた)若(つみ)の沖(おき)に持ち行きて放つともうれむそこれがよみがへりなむ<br />
通観(つうくわん)法師『万葉集』(巻三・三ニ七）</strong></p>
<p>「大海の沖に持っていって放生したとしても、どうしてこんなものが生き返ろうか」との意味。困惑する僧の顔が見えるようだ。<br />
房総の海を華やかに彩る現代短歌がある。</p>
<p><strong>鮑、ことにうまき弥生の桜鯛房総に来て舌孝行す　　　　　　　　　　田村広志</strong></p>
<p>（写真撮影：平賀大蔵）</p>
<p>ながらみ書房『短歌往来』2013年7月号より</p>
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		<title>竹</title>
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		<pubDate>Thu, 03 Sep 2015 07:16:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[　「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」の言葉で、世間に衝撃を与えたのは横井正一さんだった。 　二十八年間、敗戦を知らずに逃亡生活をして、一九七二年一月二十四日（五十六歳）にグアム島のタロホホの密林で発見された。そして、八十二歳まで生きた伝説の人である。当時私は二十代半ば。日本は高度成長期のただなかにあった。ジャングルでの孤独な日々でも軍人を貫いたその精神力に、終わっていなかった戦後を知って愕然とした。 　テレビには手作りの、籠やうけ(・・)（鰻や蝦を捕る仕掛け）が映った。竹稈(ちっかん)を使った、食物入れの筒や火おこしや織物機などの道具、竹の皮を使った皿やまな板などの道具、さらに竪穴式住居（横井ケープ）を住みやすくするために、床や天井や棚などしつらえ、また竹の枯葉をクッションとして敷いていたことなども知った。横井さんのサバイバルはまるごと、原始生活であった。 　使用した竹の種類は泰山(だいさん)竹(ちく)という。稈が軟らかくて粘り強く、角でも折れることのない性質だ。また、葉には珪酸(けいさん)の含有量も多く、腐りにくいうえに空気がふわっと入り、湿度の高い穴倉でも、いくぶんか快適に過ごせただろう。竹が横井さんの命を繋いだともいえるのだ。 　竹類はグアム島には原生種がなく、泰山竹はスペイン領時代に、入植者が中国南部か熱帯アジアから移植したと推測されている。　 　日本で多く利用されているのは、真竹、淡(は)竹(ちく)、孟宗(もうそう)竹(ちく)の三種類だ。そのうちの真竹や淡竹は、日本原産説が正しいといわれている。　真竹は淡竹より大形で伸縮性がよく、弓や定規や尺八などに使われる。とりわけアメリカのエジソンによって、一八八二年に京都の八幡村の真竹をフィラメントに使い、世界初の「白熱電球」を成功させたことで有名だ。　淡竹は弾力性があり細く割れるため、茶筅や花籠や竹垣などに利用される。 　孟宗竹は食料になる。もとは中国原産で、今から約二四〇年ほど前の天文元年（一七三六）、第二十一代薩摩藩主であった島津吉貴が、琉球からその苗を現在の鹿児島市磯部邸に移して繁殖させ、その後、安永八年に江戸品川の薩摩藩邸に栽植した。そしてこの二ヶ所を起点として、日本国中に普及させたという説が有力だ。 　四月半ば、京都の洛西は朝掘り筍の最盛期だった。もちろん種類は孟宗竹。朝の十一時ごろ、竹林を訪れると、すでに朝掘りの作業は終わっていた。四百坪～五百坪ほどある一軒の竹林に立つと、農家のおじさんがほり(・・)という道具の手入れをしていた。筍を傷つけず地中深くから堀り起こせるように、細長くカーブさせた特殊な鍬である。釘抜きのように掘りおこすのだ。 「掘りごろのものは、靴の裏にツンと感じると聞いたのですが、そうなんですか」 「べつに歩かんでも、見たらすぐわかる。地表がひび割れてるよってな。ほら、そこ見てみいよ」 　指差さしたところに、地面からわずか穂を出しているのが見える。明朝に掘るための目印に、棒が挿してあった。筍は非常に成長が早く、地表に頭をだして日光や空気にふれてしまうと皮が黒くなるので、夜明けから朝八時頃までに作業をしてしまうのだ。掘ってから料理をするまでの時間が短いほど、やわらかくてえぐみ(・・・)もない。 「風にうねる音に混じって、鴬の笹鳴きなんかが聴こえるし、家へ帰りとうないよ」　そういうおじさんと一緒に、鴬の幼い鳴声をしばらく聴いていた。 　　御苑生(みそのふ)の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ　　　                                                                      大伴家持『万葉集』（巻十九・四二八六）  御苑（平城宮）の竹林で鶯はもうたびたび鳴いてたのに、雪はまだ降り続いているよとの意味。貴人の館や宮中の庭には、竹が何本も植えられていたことが歌からわかる。 　「大宮人」にかかる枕詞の、「さす竹」の「さす」は伸びてゆくことを意味し、象徴的な言葉になっているのも、垣をはりめぐらしたり、葉を敷き仮宿に寝たのも、竹の生長や繁殖の神秘性を信じたからだ。 　『古事記』上巻・天照大御神と須佐之男命の章には、高天原を追われた須佐之男命は、出雲国の肥河の川上の鳥(とり)髪(かみ)というところに降りた。そこに箸が流れてきたので、人が住んでいると気づき、櫛名田比売(くしなだひめ)を知る場面である。また、天の石屋戸の前で天宇受売命が天の香久山の小竹葉(ささば)を、束ねて手に持ち舞っている。 　箸に関しては、古く倭国では箸は使っておらず、人びとは手で食べていた。『古事記』『日本書紀』の編纂あたりの時代になってから、一般化している。神話の箸は、文化的な象徴として使われたようである。吉野裕子著『祭りの原理』には、古代の箸は二本ではなく、一本の細い竹を曲げ撓(たわ)めたもの（ピンセット状）のようだと指摘している。箸は二本並んで流れてくることはとても考えられず、もし片方が流れてきたのであれば、細い棒としか認識できなかったのではないかと推察している。　  　　一定の時間が経(た)つと傾きて溜りし水を吐く竹の筒　　　　　　　　　　奥村晃作  　ししおどしの仕掛けを、じっと見つめる作者がとても楽しい。漢字では「鹿威し」と書く。もとは、大きな音で農作物に被害を与える鳥獣を音でおどす道具であった。目的から離れ、音を楽しむために日本庭園などに置かれる。最近、都心のビル街にも、竹を使った景観に出会うことがある。色、音、形からも竹は空間を一変させている。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年6月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/09/2013.6-DSC_2373take.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-591" title="2013.6-DSC_2373竹林の小径" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/09/2013.6-DSC_2373take-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>　「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」の言葉で、世間に衝撃を与えたのは横井正一さんだった。</p>
<p>　二十八年間、敗戦を知らずに逃亡生活をして、一九七二年一月二十四日（五十六歳）にグアム島のタロホホの密林で発見された。そして、八十二歳まで生きた伝説の人である。当時私は二十代半ば。日本は高度成長期のただなかにあった。ジャングルでの孤独な日々でも軍人を貫いたその精神力に、終わっていなかった戦後を知って愕然とした。</p>
<p>　テレビには手作りの、籠やうけ(・・)（鰻や蝦を捕る仕掛け）が映った。竹稈(ちっかん)を使った、食物入れの筒や火おこしや織物機などの道具、竹の皮を使った皿やまな板などの道具、さらに竪穴式住居（横井ケープ）を住みやすくするために、床や天井や棚などしつらえ、また竹の枯葉をクッションとして敷いていたことなども知った。横井さんのサバイバルはまるごと、原始生活であった。</p>
<p>　使用した竹の種類は泰山(だいさん)竹(ちく)という。稈が軟らかくて粘り強く、角でも折れることのない性質だ。また、葉には珪酸(けいさん)の含有量も多く、腐りにくいうえに空気がふわっと入り、湿度の高い穴倉でも、いくぶんか快適に過ごせただろう。竹が横井さんの命を繋いだともいえるのだ。</p>
<p>　竹類はグアム島には原生種がなく、泰山竹はスペイン領時代に、入植者が中国南部か熱帯アジアから移植したと推測されている。　</p>
<p>　日本で多く利用されているのは、真竹、淡(は)竹(ちく)、孟宗(もうそう)竹(ちく)の三種類だ。そのうちの真竹や淡竹は、日本原産説が正しいといわれている。　真竹は淡竹より大形で伸縮性がよく、弓や定規や尺八などに使われる。とりわけアメリカのエジソンによって、一八八二年に京都の八幡村の真竹をフィラメントに使い、世界初の「白熱電球」を成功させたことで有名だ。　淡竹は弾力性があり細く割れるため、茶筅や花籠や竹垣などに利用される。</p>
<p>　孟宗竹は食料になる。もとは中国原産で、今から約二四〇年ほど前の天文元年（一七三六）、第二十一代薩摩藩主であった島津吉貴が、琉球からその苗を現在の鹿児島市磯部邸に移して繁殖させ、その後、安永八年に江戸品川の薩摩藩邸に栽植した。そしてこの二ヶ所を起点として、日本国中に普及させたという説が有力だ。</p>
<p>　四月半ば、京都の洛西は朝掘り筍の最盛期だった。もちろん種類は孟宗竹。朝の十一時ごろ、竹林を訪れると、すでに朝掘りの作業は終わっていた。四百坪～五百坪ほどある一軒の竹林に立つと、農家のおじさんがほり(・・)という道具の手入れをしていた。筍を傷つけず地中深くから堀り起こせるように、細長くカーブさせた特殊な鍬である。釘抜きのように掘りおこすのだ。</p>
<p>「掘りごろのものは、靴の裏にツンと感じると聞いたのですが、そうなんですか」</p>
<p>「べつに歩かんでも、見たらすぐわかる。地表がひび割れてるよってな。ほら、そこ見てみいよ」</p>
<p>　指差さしたところに、地面からわずか穂を出しているのが見える。明朝に掘るための目印に、棒が挿してあった。筍は非常に成長が早く、地表に頭をだして日光や空気にふれてしまうと皮が黒くなるので、夜明けから朝八時頃までに作業をしてしまうのだ。掘ってから料理をするまでの時間が短いほど、やわらかくてえぐみ(・・・)もない。</p>
<p>「風にうねる音に混じって、鴬の笹鳴きなんかが聴こえるし、家へ帰りとうないよ」　そういうおじさんと一緒に、鴬の幼い鳴声をしばらく聴いていた。</p>
<p><strong>　　御苑生(みそのふ)の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ　　　</strong></p>
<p><strong>                                                                     大伴家持『万葉集』（巻十九・四二八六）</strong></p>
<p> 御苑（平城宮）の竹林で鶯はもうたびたび鳴いてたのに、雪はまだ降り続いているよとの意味。貴人の館や宮中の庭には、竹が何本も植えられていたことが歌からわかる。</p>
<p>　「大宮人」にかかる枕詞の、「さす竹」の「さす」は伸びてゆくことを意味し、象徴的な言葉になっているのも、垣をはりめぐらしたり、葉を敷き仮宿に寝たのも、竹の生長や繁殖の神秘性を信じたからだ。</p>
<p>　『古事記』上巻・天照大御神と須佐之男命の章には、高天原を追われた須佐之男命は、出雲国の肥河の川上の鳥(とり)髪(かみ)というところに降りた。そこに箸が流れてきたので、人が住んでいると気づき、櫛名田比売(くしなだひめ)を知る場面である。また、天の石屋戸の前で天宇受売命が天の香久山の小竹葉(ささば)を、束ねて手に持ち舞っている。</p>
<p>　箸に関しては、古く倭国では箸は使っておらず、人びとは手で食べていた。『古事記』『日本書紀』の編纂あたりの時代になってから、一般化している。神話の箸は、文化的な象徴として使われたようである。吉野裕子著『祭りの原理』には、古代の箸は二本ではなく、一本の細い竹を曲げ撓(たわ)めたもの（ピンセット状）のようだと指摘している。箸は二本並んで流れてくることはとても考えられず、もし片方が流れてきたのであれば、細い棒としか認識できなかったのではないかと推察している。　</p>
<p> <strong>　　一定の時間が経(た)つと傾きて溜りし水を吐く竹の筒　　　　　　　　　　奥村晃作</strong></p>
<p> 　ししおどしの仕掛けを、じっと見つめる作者がとても楽しい。漢字では「鹿威し」と書く。もとは、大きな音で農作物に被害を与える鳥獣を音でおどす道具であった。目的から離れ、音を楽しむために日本庭園などに置かれる。最近、都心のビル街にも、竹を使った景観に出会うことがある。色、音、形からも竹は空間を一変させている。</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年6月号より</p>
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		<title>勾玉</title>
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		<pubDate>Wed, 26 Aug 2015 01:28:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　飾棚の上は、物でいっぱいになっている。素焼のピラミッド型の置物、赤いビロード袋に入った白い硝子玉、瓶入りの水銀、黒曜石の欠けらなど、怪しげなものばかりだ。ひとつづつ手に取ると、何かいいたげな表情があり、気になって手放せない。「どんなもんでも貯えるんやなあ」と夫に呆れられるが、性懲りもなく積みあげるのだ。 　こんどは遠縁の人から勾玉をもらった。長さ四センチの暗緑色の翡翠だ。翡翠は晩春の木々を映した湖のように、静かな色を澱ませている。獣の爪みたいに曲がった形で、頭部の穿孔には紐が通されていた。紐を頸にかけると尾部が外に尖るようになる。その野性的で異様な気配が、ことのほか気にいった。 　近ごろ雑貨店などで売られる勾玉は、丸い可愛いものや硝子のきらきらしたものなど、ブレスレットやストラップに加工されておしゃれっぽい。若者層にも広く愛されている。 　神話の絵には多く、勾玉を身につける習俗を知ることができる。どうしてこんなにも勾玉は、人びとの心をときめかせてきたのだろうか。　 　考古学的に見ると、旧石器時代という気の遠くなる頃にまでさかのぼる。昨今の装飾用というよりは、呪的で宗教的な意味があり、また、護符のように身を守るものとして用いられたようである。巨獣の牙や爪や骨などを加工し、幾重にも頸や腕に巻くなどすれば、その獣の猛威や威力そのものを、身につけられると考えられていたからだ。だがそれだけの解釈では、ちょっと味気ない。もっと重要な意味付けがあるのかもしれない。　 神話の天孫降臨において、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)が天照大神から授けられた三種の神器といえば、鏡（八咫(やたの)鏡(かがみ)）・刀（天(あめの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)）・玉（八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)）をいう。神話にあらわれた神器と同一とされ、あるいはそれに見立てられ、歴代天皇が受けついできた宝物だ。『日本書紀』巻第二・神代下の国譲りには、司令神の高皇産(たかむす)霊(ひの)尊(みこと)に説き伏せられ、出雲の大(おお)己(な)貴(むちの)神(かみ)は「瑞(みず)の八坂(やさか)瓊(に)」をもって隠退した話がある。これは出雲族の祖神の魂を、「瑞の八坂瓊（勾玉）」としてあらわしたものとおもわれる。 　ほかにも「八尺勾璁(やさかにのまがたま)」「八尺瓊勾玉」「八(や)尺(さかにの)勾璁之(まがたまの)五百津之(いほつの)美須麻流之(みすまるの)珠(たま)」などがあり、これらはすべて勾玉のことを指(さ)している。そのうちの、「八尺勾璁」「八尺瓊勾玉」とは勾玉そのものであり、「美須麻流之珠」は勾玉と一緒に菅玉・丸玉・切子玉・棗(なつめ)玉を、ネックレス状に連ねた玉を総称している。「八尺（坂）」は想定外の長大なもの、「瓊」は玉の古語であることから、「八坂瓊勾玉」とは「長大なまがれる玉」の意味となる。このことは、長大なものが貴ばれたことを意味するだろう。 　水野祐著『勾玉』にはその形態から、魚、胎児、釣針、獣牙、巴、月などを模したことが多く想像されているが、もっと重要なことを推察している。昼の世界と夜の世界を分治するときの、日・月両神の関係を示したものではないかと、神話から両神抗争説話の原形の片鱗をさぐっている。古代、日食と月食時における日神・月神の再現をねがう祀りに、鏡を日神像に勾玉を月神の象徴したのではないかと、古代日本の月神崇拝説を綿密に深めている。勾玉は日本で造られ、朝鮮へも伝えた説にも展開している。 　『古事記』上巻・葦原(あしはらの)中国(なかつくに)平定の章に、天稚彦が亡くなった後、下照姫が夷振(ひなぶり)の歌曲として詠うが、この歌からも玉の貴さがわかる。 　　 　　天(あめ)なるや　弟(おと)棚機(たなばた)の　項(うな)がせる　玉の御(み)統(すまる) 　　御統に　穴(あな)玉(だま)はや　み谷　二(ふた)渡らす　 　　　　阿(あ)治(ぢ)志(し)貴(き)　高日子(たかひこ)根(ね)の神そ 　「天にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つ越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根の神なのである」と解釈できる。 　雨にあらわれた大気と、こぼれるひかりの透明感が美しい短歌がある。     夕立の過ぎし笹生にひかりこぼれ言葉ははじめ白き勾玉　　　　　　　　内藤明 　島根県松江市の宍道湖畔に、勾玉の伝承館がある。玉造における古代攻玉の文化を一望できる展示室があり、原石、使用工具、採掘から製造工程、歴史資料などが常設展示されている。玄関ホールには大きな碧玉の原石が置かれ、目をうばわれた。 　出雲の忌部の玉作部は古墳時代中期に、碧玉の大産地に定住し、世襲的に碧玉製勾玉の製作をしてきた。ことに出雲より御祈(みほぎ)玉(だま)として長く朝廷にも献上され、以後六世紀間にもわたり、勾玉造りは存続してきたという。 　ガラス張りの工房には瑪瑙細工師が、黙々と仕事をこなしていた。青瑪瑙の原石が仕分けられていた。工房には五名の瑪瑙細工師がおり、私が出会ったのは若くしてベテランの村田誠志さんだった。石の彫刻に惹かれたのがきっかけで、この道に入られた。先輩から「石の彫刻の技術の全てが凝縮されている」といわれ、心が決まったという。 　①原石の採掘②原石の切断③荒作り④穿孔⑤荒磨き⑥仕上げを実体験をさせていただきながら、説明を聞くことができた。出雲形の勾玉はどこから眺めても丸くて優美なところに特徴がある。村田さんの繊細な指先の動きで研磨を続ける姿は、実に幸せそうだ。 　資料館の南には、花仙山(かせんざん)（約、二〇〇メートル）がある。この中に碧玉や瑪瑙が脈状にできているという。約一五〇〇万年前に地下から噴出した安山岩(あんざんがん)の溶岩が、固まってできた山だ。去年の秋に鉱脈が発見され採掘された跡なのだが、村田さんに採掘跡に案内をしてもらった。赤い粘土質の下層に緑の石の欠けらが残っていた。私はあまりの自然の美しさに絶句してしまった。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年5月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/08/2013.5-IMGP0030.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-585" title="2013.5-magatama" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/08/2013.5-IMGP0030-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>　飾棚の上は、物でいっぱいになっている。素焼のピラミッド型の置物、赤いビロード袋に入った白い硝子玉、瓶入りの水銀、黒曜石の欠けらなど、怪しげなものばかりだ。ひとつづつ手に取ると、何かいいたげな表情があり、気になって手放せない。「どんなもんでも貯えるんやなあ」と夫に呆れられるが、性懲りもなく積みあげるのだ。</p>
<p>　こんどは遠縁の人から勾玉をもらった。長さ四センチの暗緑色の翡翠だ。翡翠は晩春の木々を映した湖のように、静かな色を澱ませている。獣の爪みたいに曲がった形で、頭部の穿孔には紐が通されていた。紐を頸にかけると尾部が外に尖るようになる。その野性的で異様な気配が、ことのほか気にいった。</p>
<p>　近ごろ雑貨店などで売られる勾玉は、丸い可愛いものや硝子のきらきらしたものなど、ブレスレットやストラップに加工されておしゃれっぽい。若者層にも広く愛されている。</p>
<p>　神話の絵には多く、勾玉を身につける習俗を知ることができる。どうしてこんなにも勾玉は、人びとの心をときめかせてきたのだろうか。　</p>
<p>　考古学的に見ると、旧石器時代という気の遠くなる頃にまでさかのぼる。昨今の装飾用というよりは、呪的で宗教的な意味があり、また、護符のように身を守るものとして用いられたようである。巨獣の牙や爪や骨などを加工し、幾重にも頸や腕に巻くなどすれば、その獣の猛威や威力そのものを、身につけられると考えられていたからだ。だがそれだけの解釈では、ちょっと味気ない。もっと重要な意味付けがあるのかもしれない。　</p>
<p>神話の天孫降臨において、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)が天照大神から授けられた三種の神器といえば、鏡（八咫(やたの)鏡(かがみ)）・刀（天(あめの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)）・玉（八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)）をいう。神話にあらわれた神器と同一とされ、あるいはそれに見立てられ、歴代天皇が受けついできた宝物だ。『日本書紀』巻第二・神代下の国譲りには、司令神の高皇産(たかむす)霊(ひの)尊(みこと)に説き伏せられ、出雲の大(おお)己(な)貴(むちの)神(かみ)は「瑞(みず)の八坂(やさか)瓊(に)」をもって隠退した話がある。これは出雲族の祖神の魂を、「瑞の八坂瓊（勾玉）」としてあらわしたものとおもわれる。</p>
<p>　ほかにも「八尺勾璁(やさかにのまがたま)」「八尺瓊勾玉」「八(や)尺(さかにの)勾璁之(まがたまの)五百津之(いほつの)美須麻流之(みすまるの)珠(たま)」などがあり、これらはすべて勾玉のことを指(さ)している。そのうちの、「八尺勾璁」「八尺瓊勾玉」とは勾玉そのものであり、「美須麻流之珠」は勾玉と一緒に菅玉・丸玉・切子玉・棗(なつめ)玉を、ネックレス状に連ねた玉を総称している。「八尺（坂）」は想定外の長大なもの、「瓊」は玉の古語であることから、「八坂瓊勾玉」とは「長大なまがれる玉」の意味となる。このことは、長大なものが貴ばれたことを意味するだろう。</p>
<p>　水野祐著『勾玉』にはその形態から、魚、胎児、釣針、獣牙、巴、月などを模したことが多く想像されているが、もっと重要なことを推察している。昼の世界と夜の世界を分治するときの、日・月両神の関係を示したものではないかと、神話から両神抗争説話の原形の片鱗をさぐっている。古代、日食と月食時における日神・月神の再現をねがう祀りに、鏡を日神像に勾玉を月神の象徴したのではないかと、古代日本の月神崇拝説を綿密に深めている。勾玉は日本で造られ、朝鮮へも伝えた説にも展開している。</p>
<p>　『古事記』上巻・葦原(あしはらの)中国(なかつくに)平定の章に、天稚彦が亡くなった後、下照姫が夷振(ひなぶり)の歌曲として詠うが、この歌からも玉の貴さがわかる。</p>
<p>　　</p>
<p>　<strong>　天(あめ)なるや　弟(おと)棚機(たなばた)の　項(うな)がせる　玉の御(み)統(すまる)</strong></p>
<p><strong>　　御統に　穴(あな)玉(だま)はや　み谷　二(ふた)渡らす　</strong></p>
<p><strong>　　　　阿(あ)</strong><strong>治(ぢ)志(し)貴(き)　高日子(たかひこ)根(ね)の神そ</strong></p>
<p>　「天にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つ越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根の神なのである」と解釈できる。</p>
<p>　雨にあらわれた大気と、こぼれるひかりの透明感が美しい短歌がある。</p>
<p><strong>    夕立の過ぎし笹生にひかりこぼれ言葉は</strong><strong>はじめ白き勾玉　　　　　　　　内藤明</strong></p>
<p>　島根県松江市の宍道湖畔に、勾玉の伝承館がある。玉造における古代攻玉の文化を一望できる展示室があり、原石、使用工具、採掘から製造工程、歴史資料などが常設展示されている。玄関ホールには大きな碧玉の原石が置かれ、目をうばわれた。</p>
<p>　出雲の忌部の玉作部は古墳時代中期に、碧玉の大産地に定住し、世襲的に碧玉製勾玉の製作をしてきた。ことに出雲より御祈(みほぎ)玉(だま)として長く朝廷にも献上され、以後六世紀間にもわたり、勾玉造りは存続してきたという。</p>
<p>　ガラス張りの工房には瑪瑙細工師が、黙々と仕事をこなしていた。青瑪瑙の原石が仕分けられていた。工房には五名の瑪瑙細工師がおり、私が出会ったのは若くしてベテランの村田誠志さんだった。石の彫刻に惹かれたのがきっかけで、この道に入られた。先輩から「石の彫刻の技術の全てが凝縮されている」といわれ、心が決まったという。</p>
<p>　①原石の採掘②原石の切断③荒作り④穿孔⑤荒磨き⑥仕上げを実体験をさせていただきながら、説明を聞くことができた。出雲形の勾玉はどこから眺めても丸くて優美なところに特徴がある。村田さんの繊細な指先の動きで研磨を続ける姿は、実に幸せそうだ。</p>
<p>　資料館の南には、花仙山(かせんざん)（約、二〇〇メートル）がある。この中に碧玉や瑪瑙が脈状にできているという。約一五〇〇万年前に地下から噴出した安山岩(あんざんがん)の溶岩が、固まってできた山だ。去年の秋に鉱脈が発見され採掘された跡なのだが、村田さんに採掘跡に案内をしてもらった。赤い粘土質の下層に緑の石の欠けらが残っていた。私はあまりの自然の美しさに絶句してしまった。</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年5月号より</p>
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		<title>桜</title>
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		<pubDate>Sat, 18 Jul 2015 01:52:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[　奈良斑鳩にある法隆寺西円堂には、薬師如来がまつられている。人びとから「峰のお薬師さん」と呼ばれ、親しまれている。毎年ここで、節分の夜に「追(つい)儺(な)式」が行なわれる。私は今回、はじめて見ることができた。 　僧侶の読経が終わる七時過ぎ、夜の闇が一段と深まった。薬師如来の秀麗な姿が灯明に浮かび、ひときわ澄んでいた。お堂のまわりには金網が張られ、その周囲には参拝の人波が、寄せては返していた。　 　ジャン、ジャン、ジャン 　ドンドン、ドンドン 　ジャン、ジャン、ジャン 　鐘や太鼓の激しい音が響きわたった。いよいよ鬼の登場だ。黒鬼、青鬼、赤鬼が次々に躍り出た。手に松明を掲げてひとしきり暴れる所作をしたあと、金網の方に投げると、火の粉がはげしく飛び散った。そしてあらわれた毘沙門天は、手にもった鉾で鬼を追い、法力で退散させるのだ。寒さも忘れて見守る人びとから、歓声と拍手が湧き起こった。「震災による苦しみ悲しみが、癒えますように」と、声をあげて祈る人がいた。 　古代中国では、年末や正月に赤(あ)豆(づき)を供えたり撒いたりし、疫病を追う習わしがあった。日本では農家の予祝行事として、豆の種を畑におろす儀式で収穫を占ってきた。それと鬼やらいとが、重なりあったのだろうとする説がある。法隆寺の追儺式は、鎌倉時代（一二六一年）から続けられ、その最古の様式を保っているとされている。節分とは季節を分けること。帰り道の民家の庭に、早咲きの河津桜を見つけた。明日はもう立春なのだ。 　和菓子屋のショーケースには、桜餅がたくさん並んだ。ちょっと気が早いとか思いながらも、「今年は、どこの花に会いに行こう」などと思いめぐらし、まずは仏壇のお供えに三個ばかり買った。桜餅は人のこころを、春へ春へと急がせる。 　私には、忘れられない一本の桜がある。生家の二階の窓から見えた若い山桜だ。家は里山の麓だったので、朝日があたるとひょろりとした幹があらわになり、夜の暗闇でもそこだけボオーッと浮きあがり、霧雨のなかでも時には、青っぽく見えたりした。木は少しづつ大きくなり、花の数も増えた。 　小学生高学年のころだったか、近所に放し飼いの白犬チョビがいた。登校する私に、どこからかやってきて尾をふり、またどこかへいくといった自由な気風を持つ犬だった。私とチョビは互いに近づきすぎず、それでもひとつのパンを分けあうほどの仲だった。ところがある雪の日、一緒に歩いていた飼主のおじさんをかばい、自動車に体当たりをしてしまった。その日から私は、ひとりでパンを食べなければならなくなった。「チョビ、どこに埋まってる？」と聞くと、おじさんは黙って山を指さした。 　その年の春、山桜はいつもより白が濃くなった。ぼーっと眺めていると、理由のない懐かしさにおそわれ、私は直感的に、チョビはあの根本にいるのだと知った。 　『神楽歌』の湯立歌の桜の部分から。 大君の　ゆきとる山の　若桜(わかざくら)　 おけ　おけ 若桜　とりに我(われ)行(ゆ)く　舟(ふね)楫(かぢ)棹(さを)　人(ひと)貸せ おけ　おけ 　「大君の弓にする木を取る山の若桜よ、おけ、おけ、若桜を取りに私は行くよ。舟と楫と棹をば、だれぞ私に貸してくれ、おけ、おけ」と呼びかける。「おけおけ」には人を急(せ)かす呪の響きがある。民謡であれば若桜は、湖の対岸の少女を象徴するところだ。 　桜の語源は「サ（穀霊）＋クラ（神座）」であると、柳田国男や折口信夫らによって解釈されている。穀霊をあらわすサの例を、古語のなかに見れば、稲を植える月はサツキ、田植えに必要な雨はサミダレ、田植えの稲はサナエ、植える女性はサオトメという。そして田植えの終わりをサノボリといい、田の神祭りをする。 　クラは「天の磐座(いわくら)」や「高御座(たかみくら)」のクラと同じであることはもちろんだが、それはカグラ（神楽）やミテグラ（幣帛）のクラとおなじでもある。カグラはまさに「神座(かみくら)」のことだという。　「桜というだけで、びびっと来ますのや。人の心を浄化させる、何かがありますな」 　そう熱く語る知人がいる。知人は稲の女神は桜前線に乗り、南から北へ旅をするのだという。毎年、甘酒と塩を持って、五島列島の西端で女神を迎える。東シナ海から列島にむけ、豊作の予祝をするためである。続いて土佐の桂浜や和歌山の潮岬などを順に北上、新潟や秋田を経て、最後は青森の津軽海峡から北海道へ女神を見送り、帰宅をするという。 　茫洋としたつかみどころのない時間を、春の女神とともに過ごすという。こんな緩やかな時間と熱い感情から、季節が熟成する。 『古事記』上巻・木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の章には、天孫邇邇(にに)芸(ぎの)命へは姉の石(いし)長比売(ながひめ)とともに嫁ぐのだが、石長比売は大変醜かったために追い返されている。結果、木花之佐久夜毘売だけが妻となっている。彼女らの父の大山津(おほやまつ)見(み)神は、「石長比売を妻にすれば、邇邇芸命は岩のように永遠のものになり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば、桜が咲くように繁栄するだろう」といっている。 　本居宣長の『古事記伝』によると、「万(よろづ)の木花の中に、桜ぞ勝(すぐ)れて美(めでた)き故に、殊に開光(さきは)映(や)てふ名を負(おひ)て、佐久(さく)良(ら)とは云(いへ)り、夜と良は横通(よこにかよふ)音(こゑ)なり」としている。 　古典に詠まれた私だけの桜を、目裏に咲かせたくなる歌がある。  　　やはらかに文語の季節去りにけり花見むとしてわれは目を閉づ　　　　今野寿美 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（写真撮影：楠本弘児） 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年4月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/07/2013.4yamasakura.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-577" title="2013.4yamasakura" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/07/2013.4yamasakura-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>　奈良斑鳩にある法隆寺西円堂には、薬師如来がまつられている。人びとから「峰のお薬師さん」と呼ばれ、親しまれている。毎年ここで、節分の夜に「追(つい)儺(な)式」が行なわれる。私は今回、はじめて見ることができた。</p>
<p>　僧侶の読経が終わる七時過ぎ、夜の闇が一段と深まった。薬師如来の秀麗な姿が灯明に浮かび、ひときわ澄んでいた。お堂のまわりには金網が張られ、その周囲には参拝の人波が、寄せては返していた。　</p>
<p>　ジャン、ジャン、ジャン</p>
<p>　ドンドン、ドンドン</p>
<p>　ジャン、ジャン、ジャン</p>
<p>　鐘や太鼓の激しい音が響きわたった。いよいよ鬼の登場だ。黒鬼、青鬼、赤鬼が次々に躍り出た。手に松明を掲げてひとしきり暴れる所作をしたあと、金網の方に投げると、火の粉がはげしく飛び散った。そしてあらわれた毘沙門天は、手にもった鉾で鬼を追い、法力で退散させるのだ。寒さも忘れて見守る人びとから、歓声と拍手が湧き起こった。「震災による苦しみ悲しみが、癒えますように」と、声をあげて祈る人がいた。</p>
<p>　古代中国では、年末や正月に赤(あ)豆(づき)を供えたり撒いたりし、疫病を追う習わしがあった。日本では農家の予祝行事として、豆の種を畑におろす儀式で収穫を占ってきた。それと鬼やらいとが、重なりあったのだろうとする説がある。法隆寺の追儺式は、鎌倉時代（一二六一年）から続けられ、その最古の様式を保っているとされている。節分とは季節を分けること。帰り道の民家の庭に、早咲きの河津桜を見つけた。明日はもう立春なのだ。</p>
<p>　和菓子屋のショーケースには、桜餅がたくさん並んだ。ちょっと気が早いとか思いながらも、「今年は、どこの花に会いに行こう」などと思いめぐらし、まずは仏壇のお供えに三個ばかり買った。桜餅は人のこころを、春へ春へと急がせる。</p>
<p>　私には、忘れられない一本の桜がある。生家の二階の窓から見えた若い山桜だ。家は里山の麓だったので、朝日があたるとひょろりとした幹があらわになり、夜の暗闇でもそこだけボオーッと浮きあがり、霧雨のなかでも時には、青っぽく見えたりした。木は少しづつ大きくなり、花の数も増えた。</p>
<p>　小学生高学年のころだったか、近所に放し飼いの白犬チョビがいた。登校する私に、どこからかやってきて尾をふり、またどこかへいくといった自由な気風を持つ犬だった。私とチョビは互いに近づきすぎず、それでもひとつのパンを分けあうほどの仲だった。ところがある雪の日、一緒に歩いていた飼主のおじさんをかばい、自動車に体当たりをしてしまった。その日から私は、ひとりでパンを食べなければならなくなった。「チョビ、どこに埋まってる？」と聞くと、おじさんは黙って山を指さした。</p>
<p>　その年の春、山桜はいつもより白が濃くなった。ぼーっと眺めていると、理由のない懐かしさにおそわれ、私は直感的に、チョビはあの根本にいるのだと知った。</p>
<p>　『神楽歌』の湯立歌の桜の部分から。</p>
<p><strong>大君の　ゆきとる山の　若桜(わかざくら)　</strong></p>
<p><strong>おけ　おけ</strong></p>
<p><strong>若桜　とりに我(われ)行(ゆ)く　舟(ふね)楫(かぢ)棹(さを)　人(ひと)貸せ</strong></p>
<p><strong>おけ　おけ</strong></p>
<p>　「大君の弓にする木を取る山の若桜よ、おけ、おけ、若桜を取りに私は行くよ。舟と楫と棹をば、だれぞ私に貸してくれ、おけ、おけ」と呼びかける。「おけおけ」には人を急(せ)かす呪の響きがある。民謡であれば若桜は、湖の対岸の少女を象徴するところだ。</p>
<p>　桜の語源は「サ（穀霊）＋クラ（神座）」であると、柳田国男や折口信夫らによって解釈されている。穀霊をあらわすサの例を、古語のなかに見れば、稲を植える月はサツキ、田植えに必要な雨はサミダレ、田植えの稲はサナエ、植える女性はサオトメという。そして田植えの終わりをサノボリといい、田の神祭りをする。</p>
<p>　クラは「天の磐座(いわくら)」や「高御座(たかみくら)」のクラと同じであることはもちろんだが、それはカグラ（神楽）やミテグラ（幣帛）のクラとおなじでもある。カグラはまさに「神座(かみくら)」のことだという。　「桜というだけで、びびっと来ますのや。人の心を浄化させる、何かがありますな」</p>
<p>　そう熱く語る知人がいる。知人は稲の女神は桜前線に乗り、南から北へ旅をするのだという。毎年、甘酒と塩を持って、五島列島の西端で女神を迎える。東シナ海から列島にむけ、豊作の予祝をするためである。続いて土佐の桂浜や和歌山の潮岬などを順に北上、新潟や秋田を経て、最後は青森の津軽海峡から北海道へ女神を見送り、帰宅をするという。</p>
<p>　茫洋としたつかみどころのない時間を、春の女神とともに過ごすという。こんな緩やかな時間と熱い感情から、季節が熟成する。</p>
<p>『古事記』上巻・木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の章には、天孫邇邇(にに)芸(ぎの)命へは姉の石(いし)長比売(ながひめ)とともに嫁ぐのだが、石長比売は大変醜かったために追い返されている。結果、木花之佐久夜毘売だけが妻となっている。彼女らの父の大山津(おほやまつ)見(み)神は、「石長比売を妻にすれば、邇邇芸命は岩のように永遠のものになり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば、桜が咲くように繁栄するだろう」といっている。</p>
<p>　本居宣長の『古事記伝』によると、「万(よろづ)の木花の中に、桜ぞ勝(すぐ)れて美(めでた)き故に、殊に開光(さきは)映(や)てふ名を負(おひ)て、佐久(さく)良(ら)とは云(いへ)り、夜と良は横通(よこにかよふ)音(こゑ)なり」としている。</p>
<p>　古典に詠まれた私だけの桜を、目裏に咲かせたくなる歌がある。</p>
<p> 　<strong>　やはらかに文語の季節去りにけり花見むとしてわれは目を閉づ　　　　今野寿美</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（写真撮影：楠本弘児）</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年4月号より</p>
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		<title>梅</title>
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		<pubDate>Tue, 16 Jun 2015 07:37:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[　正月の床の間を飾った、紅梅の盆栽を庭におろした。十年経って幹は細かったが、大人の背丈以上にまで成長した。寒風のなか、八重の紅梅がひとつふたつ咲きはじめると、毎年どこからかメジロの夫婦が遊びにやってきた。ほっぺに梅の花粉をつけて、ちゅるちゅる鳴くのを家の中から眺めながら、春の到来をよろこんでいた。 　その梅は鑑賞用の栽培種だったため、実は三個ほどしかつけなかった。その実が大きくなれば、わが家は初夏。花が散ったあと青ビロード状の玉があらわれ、直径三センチほどになるまで見守った。ところが去年、なにかの害虫の蛹が棲みつき、木を枯らしてしまった。紅梅のない二月の庭は、とても薄暗い。 　日本ではもちろん、中国大陸や朝鮮半島でも親しまれてきた梅だが、欧州では愛でられてはいないようだ。園芸用に品種改良されたり愛好者が多かったりする紫陽花や椿を思えば、その違いはあきらか。太古から日本にも野生状態のものがあるという。大分県の南海部郡や大野郡、宮崎県の東臼杵郡などの山間である。それには自生説もあるが、栽培品が山間に逸出したものだろうともみられる。 　梅の日本への伝来は藤原京時代に中国から渡来したといわれ、九州でまず先に咲き、奈良の都に移されたと推察できる。 　文書では『万葉集』『懐風(かいふう)藻(そう)』にはそれぞれ歌や漢詩に詠まれているが、『古事記』『日本書紀』には登場しない。とりわけ、『万葉集』においては一一八首もの多さで詠まれ、萩の一四一首に次いで二位となっている。 　万葉時代には舶来の花として楽しまれたようだが、その花は白色の品種で、雪のイメージに重ねられることが多かった。今の分類でいえば、野(や)梅(ばい)系（紅梅系・豊後系・野梅系などの品種のうち）の白花種であったようだ。 　天平二年（七三〇）正月十三日に、大宰府の帥(そつ)（長官）の大伴旅人の館に役人たちが招かれ、新春を寿ぐ梅花の宴がひらかれた。そこでは中国の漢詩にもあるように、落梅の歌を求めた詳しい序文とともに詠まれた三二首の歌が、序文とともにずらりと『万葉集』巻五に収められている。梅は鏡の前におかれていた。一同は早春に咲くと詠み、髪や冠に挿したいと詠み、雪のように散ると詠んだ。しかし、特長である馥郁たる香りは詠まれていない。奈良時代には嗅覚表現はあまりされなかったようである。 　　わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　主人(あるじ)『万葉集』（巻五・八二二） 　　宴の主の旅人が詠んだ。この後十年を経た天平十二年十二月に、大伴家持が父の旅人のひらいた当時の梅花の宴を思いおこし、新しく六首まで付け加えている。梅は天平の文化人たちに強い関心を与えたようだ。 　その梅と雪との美意識は時を経て、平安時代に隆盛となった『催馬楽』にも、「梅(むめ)が枝(え)に　来(き)ゐる鶯(うぐひす)や　春かけて　はれ　春かけて　鳴けどもいまだや　雪は降りつつ　あはれ　そこよしや　雪は降りつつ」があり、平安末期の『梁塵秘抄』にも「松の木陰(こかげ)に立ち寄れば　千歳(ちとせ)の翠(みどり)ぞ身に染(し)める　梅(むめ)が枝(え)挿頭にさしつれば　春の雪こそ降りかかれ」と詠われた。 　梅は鑑賞するより以前に、食用や薬用などに用いられたという。関根真隆著『奈良朝食生活の研究』には、寺院で梅子（実）五升を十五文で買入れた記録があり、写経所の寺僧には枇杷・栗・梨・梅などが支給されていたという記録がある。また、乾燥品は干柿や干栗はあるが、梅干はなかったようだ。 　梅林といえば大阪府では大阪城、金熊寺、奈良県の月ヶ瀬梅林、京都府では城南宮と、わが家からは比較的近い。ふらっと出かけるにはちょうどいい。しかし、私が一番印象に残っているのは、和歌山県の南部(みなべ)の梅林だ。約数十万本の梅が栽培されていると聞くが、そのすべてが「南(なん)高梅(こううめ)」という種類で、実を収穫するために植えられている。なだらかな斜面に白い花がどこまでも続く風景には、ため息ばかりだ。 　その一部が岩代の梅林であり、熊野古道が通っている。熊野古道唯一の海沿いのルートである千里の浜は、アカウミガメの産卵地として知られるところだ。鎌倉時代の藤原定家著『明月記』によれば、建仁元年の秋、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家も、ここを通って岩代王子へ詣でている。 　晴天の群青の海はとびっきり美しい。しかし、私が訪れたときは悪天候で、海も空も灰一色だった。海からの暴風雨を逃れて峠の梅林に入ったとき、思わずその明るさに息をのんだ。視界のすべてが白い小花でおおわれ、雨にうるんでいたからだ。枝の花はちょうど洗い米を撒いたようにつぶつぶと光り、雨に膨らんで見えた。行けども行けども白い闇。自分自身、どこをさまよっているのか、しばらく分らなくなっていた。 　万葉表記では、烏梅・梅のほかに宇米・汗米・有米などがあてられる。雨にうるんだ花を思えば、万葉びとは音としてのみ、米の字を用いたのではなかっただろうと確信する。 　南高梅は梅干や梅酒に加工する。また、果肉をまっ黒の液になるまで、五時間以上もとろ火で煮つめると、烏(う)梅(ばい)ができる。効能は鎮痛薬、解毒薬、健胃整腸薬、風邪薬ほか、回虫駆除までと万能。昔から民間薬として重宝してきた。祖母は父が戦地に派兵されるとき、千人針と一緒に持たせていた。 　　遠くにて褒むるは誰ぞ梅香る庭を掃きつつひとつくしゃみす　　　　　大下一真 　鎌倉には花の寺としても有名な、瑞泉寺がある。作者はひたすら庭掃除をする住職だ。市指定天然記念物の黄梅がもうすぐ咲く。   ながらみ書房『短歌往来』2013年3月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/06/2013.3tanabeume.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-569" title="田辺梅林" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/06/2013.3tanabeume-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a></p>
<p>　正月の床の間を飾った、紅梅の盆栽を庭におろした。十年経って幹は細かったが、大人の背丈以上にまで成長した。寒風のなか、八重の紅梅がひとつふたつ咲きはじめると、毎年どこからかメジロの夫婦が遊びにやってきた。ほっぺに梅の花粉をつけて、ちゅるちゅる鳴くのを家の中から眺めながら、春の到来をよろこんでいた。</p>
<p>　その梅は鑑賞用の栽培種だったため、実は三個ほどしかつけなかった。その実が大きくなれば、わが家は初夏。花が散ったあと青ビロード状の玉があらわれ、直径三センチほどになるまで見守った。ところが去年、なにかの害虫の蛹が棲みつき、木を枯らしてしまった。紅梅のない二月の庭は、とても薄暗い。</p>
<p>　日本ではもちろん、中国大陸や朝鮮半島でも親しまれてきた梅だが、欧州では愛でられてはいないようだ。園芸用に品種改良されたり愛好者が多かったりする紫陽花や椿を思えば、その違いはあきらか。太古から日本にも野生状態のものがあるという。大分県の南海部郡や大野郡、宮崎県の東臼杵郡などの山間である。それには自生説もあるが、栽培品が山間に逸出したものだろうともみられる。</p>
<p>　梅の日本への伝来は藤原京時代に中国から渡来したといわれ、九州でまず先に咲き、奈良の都に移されたと推察できる。</p>
<p>　文書では『万葉集』『懐風(かいふう)藻(そう)』にはそれぞれ歌や漢詩に詠まれているが、『古事記』『日本書紀』には登場しない。とりわけ、『万葉集』においては一一八首もの多さで詠まれ、萩の一四一首に次いで二位となっている。</p>
<p>　万葉時代には舶来の花として楽しまれたようだが、その花は白色の品種で、雪のイメージに重ねられることが多かった。今の分類でいえば、野(や)梅(ばい)系（紅梅系・豊後系・野梅系などの品種のうち）の白花種であったようだ。</p>
<p>　天平二年（七三〇）正月十三日に、大宰府の帥(そつ)（長官）の大伴旅人の館に役人たちが招かれ、新春を寿ぐ梅花の宴がひらかれた。そこでは中国の漢詩にもあるように、落梅の歌を求めた詳しい序文とともに詠まれた三二首の歌が、序文とともにずらりと『万葉集』巻五に収められている。梅は鏡の前におかれていた。一同は早春に咲くと詠み、髪や冠に挿したいと詠み、雪のように散ると詠んだ。しかし、特長である馥郁たる香りは詠まれていない。奈良時代には嗅覚表現はあまりされなかったようである。</p>
<p><strong>　　わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも　　　　　　　　　</strong></p>
<p><strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　主人(あるじ)『万葉集』（巻五・八二二）</strong></p>
<p>　　宴の主の旅人が詠んだ。この後十年を経た天平十二年十二月に、大伴家持が父の旅人のひらいた当時の梅花の宴を思いおこし、新しく六首まで付け加えている。梅は天平の文化人たちに強い関心を与えたようだ。</p>
<p>　その梅と雪との美意識は時を経て、平安時代に隆盛となった『催馬楽』にも、「梅(むめ)が枝(え)に　来(き)ゐる鶯(うぐひす)や　春かけて　はれ　春かけて　鳴けどもいまだや　雪は降りつつ　あはれ　そこよしや　雪は降りつつ」があり、平安末期の『梁塵秘抄』にも「松の木陰(こかげ)に立ち寄れば　千歳(ちとせ)の翠(みどり)ぞ身に染(し)める　梅(むめ)が枝(え)挿頭にさしつれば　春の雪こそ降りかかれ」と詠われた。</p>
<p>　梅は鑑賞するより以前に、食用や薬用などに用いられたという。関根真隆著『奈良朝食生活の研究』には、寺院で梅子（実）五升を十五文で買入れた記録があり、写経所の寺僧には枇杷・栗・梨・梅などが支給されていたという記録がある。また、乾燥品は干柿や干栗はあるが、梅干はなかったようだ。</p>
<p>　梅林といえば大阪府では大阪城、金熊寺、奈良県の月ヶ瀬梅林、京都府では城南宮と、わが家からは比較的近い。ふらっと出かけるにはちょうどいい。しかし、私が一番印象に残っているのは、和歌山県の南部(みなべ)の梅林だ。約数十万本の梅が栽培されていると聞くが、そのすべてが「南(なん)高梅(こううめ)」という種類で、実を収穫するために植えられている。なだらかな斜面に白い花がどこまでも続く風景には、ため息ばかりだ。</p>
<p>　その一部が岩代の梅林であり、熊野古道が通っている。熊野古道唯一の海沿いのルートである千里の浜は、アカウミガメの産卵地として知られるところだ。鎌倉時代の藤原定家著『明月記』によれば、建仁元年の秋、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家も、ここを通って岩代王子へ詣でている。</p>
<p>　晴天の群青の海はとびっきり美しい。しかし、私が訪れたときは悪天候で、海も空も灰一色だった。海からの暴風雨を逃れて峠の梅林に入ったとき、思わずその明るさに息をのんだ。視界のすべてが白い小花でおおわれ、雨にうるんでいたからだ。枝の花はちょうど洗い米を撒いたようにつぶつぶと光り、雨に膨らんで見えた。行けども行けども白い闇。自分自身、どこをさまよっているのか、しばらく分らなくなっていた。</p>
<p>　万葉表記では、烏梅・梅のほかに宇米・汗米・有米などがあてられる。雨にうるんだ花を思えば、万葉びとは音としてのみ、米の字を用いたのではなかっただろうと確信する。</p>
<p>　南高梅は梅干や梅酒に加工する。また、果肉をまっ黒の液になるまで、五時間以上もとろ火で煮つめると、烏(う)梅(ばい)ができる。効能は鎮痛薬、解毒薬、健胃整腸薬、風邪薬ほか、回虫駆除までと万能。昔から民間薬として重宝してきた。祖母は父が戦地に派兵されるとき、千人針と一緒に持たせていた。</p>
<p><strong>　　遠くにて褒むるは誰ぞ梅香る庭を掃きつつひとつくしゃみす　　　　　大下一真</strong></p>
<p>　鎌倉には花の寺としても有名な、瑞泉寺がある。作者はひたすら庭掃除をする住職だ。市指定天然記念物の黄梅がもうすぐ咲く。</p>
<p>  ながらみ書房『短歌往来』2013年3月号より</p>
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		<title>遊女</title>
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		<pubDate>Wed, 18 Mar 2015 06:12:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[　飛田新地は、大阪市西成区にある色街だ。 　大正時代に築かれた日本最大級の遊廓といわれ、いまも一六〇軒ほどが料亭として店をはる。一九五八年の売春防止法施行の後も、客と仲居の自由恋愛ということで、売春防止法を逃れることができたためである。約四百メートル四方エリアのなか、北側に青春通りやかわい子ちゃん通り、南側に年増通りや妖怪通りや年金通りがある。 「兄ちゃん、ちょっと遊ばへんか？」「うん、あちこち見てからや」「また、戻ってきてな。待ってるよって」 　店のなかから、客引きのおばさんが前を通る男に声をかける。 　夜になると、どの店の玄関も明るくライトアップされ、赤絨毯や椅子に坐った若い娘たちの姿をぼうっと浮きあがらせている。外灯は暗く、通りをゆく人の互いの顔がよく判らない。どの店の玄関にも娘と客引きのおばさんのペアが、通りの男を誘っていた。 　一軒の店を見た。蘭の花鉢とキティちゃんのライトで飾られた玄関には、ロングヘヤ―に白いワンピースの娘がひとり、ややうつむき加減に坐っていた。脇にはエプロンにつっかけ姿のおばさんがひとり、ちょうど前を通ったジーンズ男を呼びこんだ。男は靴を脱ぐと、娘に案内されて二階に消えた。するとすぐ、別のロングヘアーにピンクのブラウスの娘がその席に着いた。遠目には同じ娘が、客待ちをしているように見える。　 　ときおり、飛田で遊ぶという知人がいる。知人によると、日本が好景気のころは外国の娘が多かったが、いまは都合のいい時間だけの、アルバイトやパートの主婦や学生もいるという。座布団二枚の上の、二十分限りのインスタント恋愛。二万円渡してお釣りを受けとり、店を出るときに「こんどいつ？待ってるから」といわれてハマったらしい。 　本来の料亭として、「鯛よし百番」は営業する。大正中期に遊廓として建てられた建物そのままを使用しており、二〇〇〇年に国の登録有形文化財となった。中には金・銀で彩色された欄間飾り、日光の陽明門に見立てた待合室、日本橋と書かれた真っ赤な階段、天神祭を描写した壁画など、まことにきらびやかだ。各部屋もこまごまと贅がつくされ、見ているだけで満腹する。ここにたどりつくまでの、通天閣のそばの道路で酒を飲んで寝ていた日雇いのおっさん、二度漬け禁止の串カツ屋のサッカリン入りソースの匂い、濃い化粧に巻き毛のかつらをかぶった花売りのお姉さん風のお兄さんなど、いっぺんに頭から離れるほどの、まさに新世界だった。 　　山城国の与(よ)渡(ど)津から大きな川を下って西へ一日ゆくと、河(か)陽(や)（淀川）である。 　　山陽、南海、西海の三道をゆききする者で、ここを通らぬ者はない。･･･分流が河内国へ向かうと江口である。摂津国へ到ると神崎、蟹嶋等の地がある。門を　ならべ戸を連ね、人家の絶えることがない。娼女が群をなしている。小さい舟にのって旅船に近づき、枕席をすすめる。その声はたなびく雲をとどめ、水風に漂っている。通るものはことごとく、家のことなど忘れてしまう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　    　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　大江匡房『遊女記』 　中世のころは水路が発達しており、もっぱら客引きは舟だった。江口、神崎あたりの川面に、遊女たちのたえなる歌声が聞こえていたことが記される。ここを通った旅びとは、故郷を忘れてとりこになったという。海の岩礁から美しい歌声で、航行中の船乗りを惑わした、ギリシア神話のセイレーンのようだ。 　　　十六の女(むすめ)は遊女(うかれめ)夜発(やはつ)の長者、江口・河尻の好(いろ)色(このみ)なり。・・・夜は舷を叩いて、心を往還の客(まろうど)に懸(か)く、・・・声は頻伽(びんが)の如く、貌(かたち)は天女の若し。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　藤原明衡『新猿楽記』 　浄土のような美声の鳥の迦陵頻伽や天女にたとえて、この世の外の美しさを描く。 　江口は大阪市東淀川区の淀川と神崎川との分岐点、神崎は尼崎市の神崎川と猪名川が合流する付近にある。 江口には江口の君（妙）が草創と伝わる、「宝林山普賢院寂光寺」がある。寺の由緒では平(たいら)資(とも)盛(もり)の息女で、平家没落後、当地に身を寄せたがやがて遊女になったという。 　境内の一角に、君塚と西行塚がある。ほかに『新古今和歌集』にも収集される問答歌の石碑も建っている。 　　世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめかりのやどりを惜(を)しむ君かな　西行法師 　　世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと心とむなと思ふばかりぞ　　　　　遊女妙 　 　一一六七年、西行法師が天王寺に参拝してこの地を通ったとき、俄(にわ)か雨が降った。江口の君に雨宿りの許しを願ったが断られた。法師が歌を詠んだところ、江口の君も詠み返して、ついには歌を楽しみながら一夜を明かしたという伝承の場所である。 　『遊女記』には江口・神崎・蟹島の遊女は「衣通姫の後身なり」とある。衣通姫は『日本書紀』によれば、允恭天皇の皇后の忍坂(おしさか)大中(おほなかつ)姫(ひめ)の妹であり、『古事記』では允恭天皇の皇女である。どちらも遊女の祖が皇族というこ とだ。ここからも、「遊」の意味が現在の認識とはずいぶん異なることがわかる。 　庭隅にはひっそりと、お松の墓があった。松は「待つ」から、遊女の隠語になったという。小さな墓のなかに、この地で逝った名も無きお松たちが眠っているのだろう。 　寺の裏側を登って、土手に立った。淀川の川面は静かで、けだるい風が吹いているのみだった。 　牧水の一首が切なく浮かんだ。 　うら若き越後生まれのおいらんの冷たき肌を愛(め)づる朝かな　　　　　　若山牧水 　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年2月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/03/2013.2-DSC_0027.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-557" title="2013.2-DSC_0027" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/03/2013.2-DSC_0027-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>　飛田新地は、大阪市西成区にある色街だ。<br />
　大正時代に築かれた日本最大級の遊廓といわれ、いまも一六〇軒ほどが料亭として店をはる。一九五八年の売春防止法施行の後も、客と仲居の自由恋愛ということで、売春防止法を逃れることができたためである。約四百メートル四方エリアのなか、北側に青春通りやかわい子ちゃん通り、南側に年増通りや妖怪通りや年金通りがある。<br />
「兄ちゃん、ちょっと遊ばへんか？」「うん、あちこち見てからや」「また、戻ってきてな。待ってるよって」<br />
　店のなかから、客引きのおばさんが前を通る男に声をかける。<br />
　夜になると、どの店の玄関も明るくライトアップされ、赤絨毯や椅子に坐った若い娘たちの姿をぼうっと浮きあがらせている。外灯は暗く、通りをゆく人の互いの顔がよく判らない。どの店の玄関にも娘と客引きのおばさんのペアが、通りの男を誘っていた。<br />
　一軒の店を見た。蘭の花鉢とキティちゃんのライトで飾られた玄関には、ロングヘヤ―に白いワンピースの娘がひとり、ややうつむき加減に坐っていた。脇にはエプロンにつっかけ姿のおばさんがひとり、ちょうど前を通ったジーンズ男を呼びこんだ。男は靴を脱ぐと、娘に案内されて二階に消えた。するとすぐ、別のロングヘアーにピンクのブラウスの娘がその席に着いた。遠目には同じ娘が、客待ちをしているように見える。　<br />
　ときおり、飛田で遊ぶという知人がいる。知人によると、日本が好景気のころは外国の娘が多かったが、いまは都合のいい時間だけの、アルバイトやパートの主婦や学生もいるという。座布団二枚の上の、二十分限りのインスタント恋愛。二万円渡してお釣りを受けとり、店を出るときに「こんどいつ？待ってるから」といわれてハマったらしい。<br />
　本来の料亭として、「鯛よし百番」は営業する。大正中期に遊廓として建てられた建物そのままを使用しており、二〇〇〇年に国の登録有形文化財となった。中には金・銀で彩色された欄間飾り、日光の陽明門に見立てた待合室、日本橋と書かれた真っ赤な階段、天神祭を描写した壁画など、まことにきらびやかだ。各部屋もこまごまと贅がつくされ、見ているだけで満腹する。ここにたどりつくまでの、通天閣のそばの道路で酒を飲んで寝ていた日雇いのおっさん、二度漬け禁止の串カツ屋のサッカリン入りソースの匂い、濃い化粧に巻き毛のかつらをかぶった花売りのお姉さん風のお兄さんなど、いっぺんに頭から離れるほどの、まさに新世界だった。<br />
　　山城国の与(よ)渡(ど)津から大きな川を下って西へ一日ゆくと、河(か)陽(や)（淀川）である。<br />
　　山陽、南海、西海の三道をゆききする者で、ここを通らぬ者はない。･･･分流が河内国へ向かうと江口である。摂津国へ到ると神崎、蟹嶋等の地がある。門を　ならべ戸を連ね、人家の絶えることがない。娼女が群をなしている。小さい舟にのって旅船に近づき、枕席をすすめる。その声はたなびく雲をとどめ、水風に漂っている。通るものはことごとく、家のことなど忘れてしまう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　    　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　大江匡房『遊女記』<br />
　中世のころは水路が発達しており、もっぱら客引きは舟だった。江口、神崎あたりの川面に、遊女たちのたえなる歌声が聞こえていたことが記される。ここを通った旅びとは、故郷を忘れてとりこになったという。海の岩礁から美しい歌声で、航行中の船乗りを惑わした、ギリシア神話のセイレーンのようだ。<br />
　　　十六の女(むすめ)は遊女(うかれめ)夜発(やはつ)の長者、江口・河尻の好(いろ)色(このみ)なり。・・・夜は舷を叩いて、心を往還の客(まろうど)に懸(か)く、・・・声は頻伽(びんが)の如く、貌(かたち)は天女の若し。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　藤原明衡『新猿楽記』<br />
　浄土のような美声の鳥の迦陵頻伽や天女にたとえて、この世の外の美しさを描く。<br />
　江口は大阪市東淀川区の淀川と神崎川との分岐点、神崎は尼崎市の神崎川と猪名川が合流する付近にある。<br />
江口には江口の君（妙）が草創と伝わる、「宝林山普賢院寂光寺」がある。寺の由緒では平(たいら)資(とも)盛(もり)の息女で、平家没落後、当地に身を寄せたがやがて遊女になったという。<br />
　境内の一角に、君塚と西行塚がある。ほかに『新古今和歌集』にも収集される問答歌の石碑も建っている。</p>
<p>　　<strong>世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめかりのやどりを惜(を)しむ君かな　西行法師<br />
　　世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと心とむなと思ふばかりぞ　　　　　遊女妙</strong><br />
　<br />
　一一六七年、西行法師が天王寺に参拝してこの地を通ったとき、俄(にわ)か雨が降った。江口の君に雨宿りの許しを願ったが断られた。法師が歌を詠んだところ、江口の君も詠み返して、ついには歌を楽しみながら一夜を明かしたという伝承の場所である。<br />
　『遊女記』には江口・神崎・蟹島の遊女は「衣通姫の後身なり」とある。衣通姫は『日本書紀』によれば、允恭天皇の皇后の忍坂(おしさか)大中(おほなかつ)姫(ひめ)の妹であり、『古事記』では允恭天皇の皇女である。どちらも遊女の祖が皇族というこ<br />
とだ。ここからも、「遊」の意味が現在の認識とはずいぶん異なることがわかる。<br />
　庭隅にはひっそりと、お松の墓があった。松は「待つ」から、遊女の隠語になったという。小さな墓のなかに、この地で逝った名も無きお松たちが眠っているのだろう。<br />
　寺の裏側を登って、土手に立った。淀川の川面は静かで、けだるい風が吹いているのみだった。<br />
　牧水の一首が切なく浮かんだ。</p>
<p>　<strong>うら若き越後生まれのおいらんの冷たき肌を愛(め)づる朝かな　　　　　　若山牧水</strong><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年2月号より</p>
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		<title>鰻</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Feb 2015 01:57:54 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>

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		<description><![CDATA[　熊野には大鰻がいる。 　五年前の春、古座川中流域に住む男性の仕掛けた延縄(はえなわ)に全長一メートル、重さ四キロ、胴回り三十センチほどの大鰻がかかったことがあった。元気がよかったので、庭の池で飼っていた。その近所の友人から誘われ、見に出かけた。覗きこむと、池の淵にじっとしていたが、突然ギロリと目を向けられてびっくりした。黑褐色で不規則なまだら模様は、南方系の特長だという。富田川では国の天然記念物に指定され、本宮町では通称イモウナギとも呼ばれる種類だった。 「大きなゴミかと思うて、引き寄せたらコイツやった。餌の鯊に食いついてたんや」　男性は胸を張った。 　延縄漁は一本の幹縄に多数の枝縄をつけ、その先端に釣針をつけたものを川に渡して仕掛ける漁法だ。前日の夕方、延縄を仕掛けたが夜には大雨が降った。翌日、早朝に川に行ってみると濁流になっていた。漁をあきらめて幹縄を引いたら掛かっていたという。 　近隣の人びとも一目見るなり、「川のヌシちゃうか？」「ワシの捕りそこねたヤツに似てる」「大蛇みたいや」など口々にいいあった。当面はみんなに見てもらい、あとは焼こうと池に入れておいたが、「コレは焼いても油ばっかりで不味い」といわれたので、まもなく川に戻すつもりだといった。 　大鰻のもっとも古い記録は、江戸時代にさかのぼる。『熊野獨参記(どくさんき)』（一六八九年・著者不詳）の古座村の項には、「此(コノ)川(カハ)大(ダイ)ナル鰻(ウナギ)多(オホ)シ　他国(タコク)二類(ルイ)ナシト云(イフ)」とある。 　江戸後期の紀州藩医で本草学者の小原(おはら)桃(とう)洞(どう)著『魚譜』には、「大ウナギ　熊野ノ古座奥相瀬(オクアイセ)二アリ　長(ナガサ)六七尺圍(マワリ)二尺斗(バカリ)アリ」とある。なんと、全長が一・八～二・一メートル、胴回りが六〇センチほどの超大物だった。 　その弟子の畔田(くろだ)翠山(すいざん)著『水族志』には、「紀州古座川熊野船津村二大ウナギアリ　共(トモ)二廻(マワ)リ尺餘(シャクアマリ)長(ナガ)サ六尺(ロクシャク)許(バカリ)ノ者(モノ)アリ」とある。 　また、紀伊半島を一周した津藩士斉藤(さいとう)拙堂(せつどう)著『南遊志』にも、古座川流域で網で捕えられているのを聞き書きしている。　このように古座川流域の大鰻は、昔からかなり有名だったようだ。 　近年になって、大正十一年に田辺市（旧・大塔村）鮎川において、日本最大級の剥製として残されているが、水分が抜けてまっすぐな棒になっている。 　昭和四十一年に建立された、富田川濁(にごり)淵(ぶち)のおおうなぎ観音（高さ一一六センチ）も珍しい。鰻の頭と尾を両手で鷲づかみにして立っている。鰻のまろやかな量感、表面がぶつぶつした皮膚感、そして一五六センチもの長さなど、実にリアルに彫られてある。 　日本近海では、このような大鰻(・・)と鰻(・)の二種類が生息する。大鰻は琉球列島から東南アジア、オセアニアにかけて広く見られる。鰻は 北海道以南の海域で朝鮮半島、中国、台湾など、東アジアに分布する。 　新石器時代の古墳から鰻の骨は出土した。先史時代から豊富に食べていたようだ。だが『古事記』『日本書紀』には登場しない。記録として登場する最初は『風土記』で、次いで『万葉集』に詠まれるが、調理法などはわからない。 　　石(いは)麿(まろ)にわれ物(もの)申(まを)す夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物そ 　　鰻(むなぎ)取り食(め)せ　　　　　　　　　　　　　　大伴家持（巻十六・三八五三）    　痩(や)す痩(や)すも生(い)けらばあらむをはたやはた 　　鰻(むなぎ)を捕ると川に流るな　　　　　　　　　　　　　　　同（巻十六・三八五四） 　一首目は吉田連(よしだのむらじ)老(おゆ)（石麿）。生まれつきの痩せ体質で、いくら飲食をしても肥えなかったため、家持が歌でからかった。鰻は夏の食養生に最適との認識がすでにあった。二首目はいくら痩せていても、生きていればいいとはとても笑えない。より元気になろうと、鰻捕りをして川で流されないようにと忠告する。 「鰻の石積み漁、見においでよ」 　そう誘ってくれたのは、古座川域に住む東生広さんと谷幸子さんだ。去年の九月半ば、時期を見はからって訪ねた。「捕れたら焼くからね」という谷さんと川へ急いだ。川原には箱眼鏡、先端に突起のついた鰻鋏、蓋付きの籠のボッツリが置かれてあった。　　　　 　石積み漁とは積んだ石の底にもぐり込んだ鰻を、鋏で捕るという原始的な漁である。鰻は石の感触や隙間や深さが気に入れば、そのままそこに居つこうとする習性がある。一週間前から放置してあるので、そろそろ入ったころだろうという。東さんは石をひとつひとつ丁寧にはぐりながら、水中を箱めがねで覗きこんだ。手長(てなが)蝦(えび)や河鯥(かわむつ)が逃げた。 「いてる！黒い頭見えてるよ」 　そういいつつ全長五十センチを四匹、ボッツリ籠に入れてくれた。天然の銀鰻（春から秋にかけて川を下る親鰻）だった。 　石積みの方法を聞いた。川のなかに鋤簾(じょれん)などで、深さ四十センチ、直径五十センチほどの穴を掘る。そのなかにゲンコツより大きい石を積んでいく。二段並びほどになったらやや大きめの石を積んでいく。最後は持ちあげられるほどの大きめの石を重石に積む。水面に石が見える程度に積めばできあがり。そうして一週間（季節によって調整）放置しておくのである。はぐって崩れても石をもとに積み戻しておけば、また鰻がもぐりこむ。 　蒲焼は身がしまっていて、実に美味しかった。冬は漁は休み。のこりは冷凍庫に保管することにした。おせちには鰻巻きも作り、川での出来事を家族に話そうと思っている。 　鰻を食べに食べた茂吉の歌。美食というよりは、滋養、延命の意味が含まれていたように思われる。 　　ゆふぐれの光に鰻の飯(いひ)はみて病院のことしばしおもへる　　　斎藤茂吉『ともしび』 　　　　　　　　　　　　　　　　　ながらみ書房『短歌往来』2013年1月号より]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/02/2012.9.27unagi0017.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-522" title="2012.9.27unagi0017鰻" src="http://oguroyomo.com/wp-content/uploads/2015/02/2012.9.27unagi0017-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a>　熊野には大鰻がいる。</p>
<p>　五年前の春、古座川中流域に住む男性の仕掛けた延縄(はえなわ)に全長一メートル、重さ四キロ、胴回り三十センチほどの大鰻がかかったことがあった。元気がよかったので、庭の池で飼っていた。その近所の友人から誘われ、見に出かけた。覗きこむと、池の淵にじっとしていたが、突然ギロリと目を向けられてびっくりした。黑褐色で不規則なまだら模様は、南方系の特長だという。富田川では国の天然記念物に指定され、本宮町では通称イモウナギとも呼ばれる種類だった。</p>
<p>「大きなゴミかと思うて、引き寄せたらコイツやった。餌の鯊に食いついてたんや」　男性は胸を張った。</p>
<p>　延縄漁は一本の幹縄に多数の枝縄をつけ、その先端に釣針をつけたものを川に渡して仕掛ける漁法だ。前日の夕方、延縄を仕掛けたが夜には大雨が降った。翌日、早朝に川に行ってみると濁流になっていた。漁をあきらめて幹縄を引いたら掛かっていたという。</p>
<p>　近隣の人びとも一目見るなり、「川のヌシちゃうか？」「ワシの捕りそこねたヤツに似てる」「大蛇みたいや」など口々にいいあった。当面はみんなに見てもらい、あとは焼こうと池に入れておいたが、「コレは焼いても油ばっかりで不味い」といわれたので、まもなく川に戻すつもりだといった。</p>
<p>　大鰻のもっとも古い記録は、江戸時代にさかのぼる。『熊野獨参記(どくさんき)』（一六八九年・著者不詳）の古座村の項には、「此(コノ)川(カハ)大(ダイ)ナル鰻(ウナギ)多(オホ)シ　他国(タコク)二類(ルイ)ナシト云(イフ)」とある。</p>
<p>　江戸後期の紀州藩医で本草学者の小原(おはら)桃(とう)洞(どう)著『魚譜』には、「大ウナギ　熊野ノ古座奥相瀬(オクアイセ)二アリ　長(ナガサ)六七尺圍(マワリ)二尺斗(バカリ)アリ」とある。なんと、全長が一・八～二・一メートル、胴回りが六〇センチほどの超大物だった。</p>
<p>　その弟子の畔田(くろだ)翠山(すいざん)著『水族志』には、「紀州古座川熊野船津村二大ウナギアリ　共(トモ)二廻(マワ)リ尺餘(シャクアマリ)長(ナガ)サ六尺(ロクシャク)許(バカリ)ノ者(モノ)アリ」とある。</p>
<p>　また、紀伊半島を一周した津藩士斉藤(さいとう)拙堂(せつどう)著『南遊志』にも、古座川流域で網で捕えられているのを聞き書きしている。　このように古座川流域の大鰻は、昔からかなり有名だったようだ。</p>
<p>　近年になって、大正十一年に田辺市（旧・大塔村）鮎川において、日本最大級の剥製として残されているが、水分が抜けてまっすぐな棒になっている。</p>
<p>　昭和四十一年に建立された、富田川濁(にごり)淵(ぶち)のおおうなぎ観音（高さ一一六センチ）も珍しい。鰻の頭と尾を両手で鷲づかみにして立っている。鰻のまろやかな量感、表面がぶつぶつした皮膚感、そして一五六センチもの長さなど、実にリアルに彫られてある。</p>
<p>　日本近海では、このような大鰻(・・)と鰻(・)の二種類が生息する。大鰻は琉球列島から東南アジア、オセアニアにかけて広く見られる。鰻は</p>
<p>北海道以南の海域で朝鮮半島、中国、台湾など、東アジアに分布する。</p>
<p>　新石器時代の古墳から鰻の骨は出土した。先史時代から豊富に食べていたようだ。だが『古事記』『日本書紀』には登場しない。記録として登場する最初は『風土記』で、次いで『万葉集』に詠まれるが、調理法などはわからない。</p>
<p>　　<strong>石(いは)麿(まろ)にわれ物(もの)申(まを)す夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物そ</strong></p>
<p><strong>　　鰻(むなぎ)取り食(め)せ　　　　　　　　　　　　　　</strong><strong>大伴家持（巻十六・三八五三）</strong></p>
<p>   　<strong>痩(や)す痩(や)すも生(い)けらばあらむをはたやはた</strong></p>
<p><strong>　　鰻(むなぎ)を捕ると川に流るな　　　　　　　　　　　　　　　</strong><strong>同（巻十六・三八五四）</strong></p>
<p>　一首目は吉田連(よしだのむらじ)老(おゆ)（石麿）。生まれつきの痩せ体質で、いくら飲食をしても肥えなかったため、家持が歌でからかった。鰻は夏の食養生に最適との認識がすでにあった。二首目はいくら痩せていても、生きていればいいとはとても笑えない。より元気になろうと、鰻捕りをして川で流されないようにと忠告する。</p>
<p>「鰻の石積み漁、見においでよ」</p>
<p>　そう誘ってくれたのは、古座川域に住む東生広さんと谷幸子さんだ。去年の九月半ば、時期を見はからって訪ねた。「捕れたら焼くからね」という谷さんと川へ急いだ。川原には箱眼鏡、先端に突起のついた鰻鋏、蓋付きの籠のボッツリが置かれてあった。　　　　</p>
<p>　石積み漁とは積んだ石の底にもぐり込んだ鰻を、鋏で捕るという原始的な漁である。鰻は石の感触や隙間や深さが気に入れば、そのままそこに居つこうとする習性がある。一週間前から放置してあるので、そろそろ入ったころだろうという。東さんは石をひとつひとつ丁寧にはぐりながら、水中を箱めがねで覗きこんだ。手長(てなが)蝦(えび)や河鯥(かわむつ)が逃げた。</p>
<p>「いてる！黒い頭見えてるよ」</p>
<p>　そういいつつ全長五十センチを四匹、ボッツリ籠に入れてくれた。天然の銀鰻（春から秋にかけて川を下る親鰻）だった。</p>
<p>　石積みの方法を聞いた。川のなかに鋤簾(じょれん)などで、深さ四十センチ、直径五十センチほどの穴を掘る。そのなかにゲンコツより大きい石を積んでいく。二段並びほどになったらやや大きめの石を積んでいく。最後は持ちあげられるほどの大きめの石を重石に積む。水面に石が見える程度に積めばできあがり。そうして一週間（季節によって調整）放置しておくのである。はぐって崩れても石をもとに積み戻しておけば、また鰻がもぐりこむ。</p>
<p>　蒲焼は身がしまっていて、実に美味しかった。冬は漁は休み。のこりは冷凍庫に保管することにした。おせちには鰻巻きも作り、川での出来事を家族に話そうと思っている。</p>
<p>　鰻を食べに食べた茂吉の歌。美食というよりは、滋養、延命の意味が含まれていたように思われる。</p>
<p>　　<strong>ゆふぐれの光に鰻の飯(いひ)はみて病院のこと</strong><strong>しばしおもへる　　　斎藤茂吉『ともしび』</strong></p>
<p><strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　</strong>ながらみ書房『短歌往来』2013年1月号より</p>
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