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海女たち 鰒(あわび)は水深二十~五十メートルあたりで、荒(あら)布(め)や若(わか)布(め)や昆布などの海藻類を食べて育つ。主として夜行性で、昼は岩の間や砂に潜って過ごす。栄螺(さざえ)は三角に盛り上がっているが、鰒は平たく周囲にまぎれて見つけにくい。
私の生家は紀淡海峡の海辺にあった。近所には磯海女が多くいて、天草や若布などを主に採るのだが、まれに栄螺や鰒を見つけることもあった。浅瀬で遊ぶ私を呼び、流木を集めて栄螺を焼き、鰒は石で殻を叩き割り、海水で洗ってからスライスしてくれたことがあった。栄螺の肝には濃厚な味の出汁と苦味があって、たくさんは食べられないが鰒は違った。噛んだ時のこりっとした感触と、口に広がる甘味は格別だ。この黒潮のエキスを頬張る醍醐味は、忘れられるものではない。
鰒は正面から近づくと素早く逃げる。追いかけても捕まえられるものではないという。岩礁の谷間などに注意し、見つけたら手早く道具の磯ノミで岩からはがし獲る。
現在、海辺の子供達でさえ磯遊びなどは、しなくなった。海の汚染、磯場の激減などもあり、自然から遠くなってしまったことはとても残念に思う。貝を海水で洗うとき、虎魚(おこぜ)に刺されてびりびり手が疼いたのも、私の大切な懐かしい痛みの記憶となっている。
こんな遊び場が万葉歌の飽等の浜(現・加太の田倉崎と推定)だったと、大人になってから知った。

紀の国の飽(あく)等(ら)の浜の忘れ貝われは忘れじ年は経(へ)ぬとも
作者不詳『万葉集』(巻十一・二七九五)

「紀の国の飽等の浜にある忘れ貝(・・・)の忘れ(・・)ではないが、私はあなたを忘れまい」との意味。
忘れ貝とは、二枚貝から離れたもう一片のことで、それを拾うと恋を忘れるという意味がこめられる。
五月に入ると、三重県の志摩半島の国崎(くざき)町では鰒猟が解禁になる。
『古事記』『日本書紀』にも登場する倭姫命(古墳時代以前の皇族)がこの地に巡行したとき、お弁という海女が鰒を献上した伝承が残る。地元の海女たちが漁期の初めに参拝するのは、海女の元祖のお弁が祀られる海士(あま)潜女(かずきめ)神社だ。人間の顔ほどある大きな鰒の殻も飾られてあり、これにはぎょっとした。鰒の主(ぬし)ともいえる風体で、岩礁にくっついていたことを想像すれば、喜びよりも畏れの感情が湧きあがる。
毎年、旧暦の六月一日にはこの海士潜女神社の御潜(みかずき)神事がある。朝、鎧崎(よろいざき)御料(ごりょう)鰒(あわび)調整所(ちょうせいじょ)近くの前(・)の(・)浜(・)に集まった四十名ほどの海女は、伝統の白装束をつけ、太鼓を合図に一斉に漁獲に向かうのだ。やがて、獲物が浜揚げされると調整所に運ばれ、土地の古老(八十代)や大老(七十代)たちによって熨斗(のし)鰒(あわび)に加工される。果物の皮みたいに薄く剥き、天日で乾燥させ、更に熨斗(竹で伸ばす)たもので、伊勢神宮に御饌料(みけりょう)として奉納するのである。その量は年間二千個、七百キロにもなるという、二千年近く続けられてきた神事だ。
熨斗は私たちの身近でずいぶん使用されてきた。祝儀袋や水引の右上に付いた赤い飾りの芯部分といえば理解できるだろう。熨斗紙の起源はここからきた。鰒は高級品のため、今はほとんど印刷物になってしまっている。
古老たちの手さばきを伺いながら、取りのぞいた肝や剥いたものをいただき、舌に乗せればその美味しさに自ずと笑えてくる。
鰒はミミガイ科の巻貝の総称だ。外見から雌雄の別はわからないが、生殖腺の色を見ると緑が雌で、白っぽいのが雄だという。別箇に見ると判断しにくいが、並べるとよくわかった。午後の神事には、海女によってめでたく鰒のつがいが奉納された。
前(・)の(・)浜(・)は普段は禁猟区で、神事のみに許される漁場だ。初物や大物を献上して豊漁と安全を願う民俗的な慣わしと、伊勢神宮への献上といった支配性の二つの観念が結びあい、晴れやかななかにも気持ちの引き締まる光景が見られる。
狛犬をなでて、足の痛みが軽くなるよう祈るお婆さんがいた。最近まで潜っていたが、身体の具合が改善せずやめたという。現代の海女の最高齢は八十歳代、新人は四十歳代、六十歳代のころは熟達期で、とても充実していたと話してくれた。
まことに女性がきびきびと働く。そういった気風は、昭和四六年刊の岩田準一著『志摩の海女』のなかにも記録されている。一家にあっては温順勤勉な妻であり、未明に起き出るとすぐご飯のしたく、大勢の子供の世話、半農半漁なので畠の見廻り、それらを一人でやってのけた後、浜の仕事に出かける。
こんな女性の働き振りに対し、男性は漁と農、それにトマエ役(海女潜水)の補佐をするが、村によっては男性は朝から長い着物で頭をポマードで分け固め、菓子屋の店先で新聞をひろげたり、碁将棋をしているのを見かける。それでも女性は村の風習だと黙認する。古くから「夫(テー)ひとり養えんようでは妻(ヤヤ)の資格がない」といってのけたほどで、誇り高い海女気質がそうさせて来たのだろうという。

乙女たちが熨斗状態のものを法師に渡し、海に放して生き返らせて欲しいと戯れに呪願を頼んだ時の歌がある。

海(わた)若(つみ)の沖(おき)に持ち行きて放つともうれむそこれがよみがへりなむ
通観(つうくわん)法師『万葉集』(巻三・三ニ七)

「大海の沖に持っていって放生したとしても、どうしてこんなものが生き返ろうか」との意味。困惑する僧の顔が見えるようだ。
房総の海を華やかに彩る現代短歌がある。

鮑、ことにうまき弥生の桜鯛房総に来て舌孝行す          田村広志

(写真撮影:平賀大蔵)

ながらみ書房『短歌往来』2013年7月号より

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