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焼畑

「今年のヤボ焼きは八月三日。ちょっとでも雨降れば、一週間の延期です」

電話の報せに、運を天候にゆだねて椎葉村までやってきた。

宮崎県東臼杵郡椎葉村は九州の脊梁山脈の山間にあり、平家の落人伝説をまとう秘境の地。その奥地には今も、焼畑農法を守っている人がいる。山を知り尽くす、大正十三年生まれの椎葉クニ子さんだ。

クニ子さんは昭和二十二年に、夫の秀行さんと焼畑を始めた。平成九年に秀行さんが病に倒れてからは、長男の勝さんが継承している。その六十六年間、毎年かかさず焼畑をおこなってきた。

世界の熱帯域から温帯域にかけて伝わる農法の焼畑は、日本では四千年以上も前の縄文時代からあった。耕作や施肥を行わずに作物を栽培した後、一定の期間を放置し、地力の回復を待つ方法だ。木々には窒素・リン酸・カリが貯えられてあり、その灰は吸収のよい抜群の肥料となる。かつては、山のあちこちで煙があがっていたというが、昭和二十年には絶えていた。

八月三日は朝からかんかん照りだった。民宿のおじさんが車で、向山の予定地まで送ってくれた。薄暗い林道を進むと、アカメガシワ、ウバユリ、イタドリ、マタタビなどの植物が見える。崖の上や山畑の際に日本蜜蜂の巣箱が置かれ、鹿を狙う猟犬が勢いあまって道に飛びだすなど、私の知る熊野地方の山間と同じ風景があった。

急に視界が明るくなった。山の急斜面の一角が、切り開かれていたからだ。全部で三十五アールほどあるだろうか。去年から刈り倒した雑木に、新しく刈った雑草などが積まれてある。そして火絶(かだ)ち(延焼をふせぐ)のため、クロ(畦)という防火帯が予定地を囲んで作られてある。クロには充分に水がかけられてあった。

「また、迎えに来てやるけぇの」と、民宿のおじさんは私を置いて下山した。呆然と立つ私を促してくれたのは、草刈をしていたクニ子さんだった。

「遠くから来なさった?ヤボ焼きならこの上で始めるとよ」草刈鎌を杖に急斜面をずんずん登るクニ子さんの後を、喘ぎながらついて行った。

「人間の場合はね、親から子へ代替わりするけど、自然の植物の場合は、土地が代替わりするとよ。焼畑をして火付けをしなおすと、山が若返るからね」途中、そう話してくれた。

掃き清めたクロに御幣を立て、酒を供えた切株の祭壇に皆が集まった。消防や手伝いの人、体験学習の人など四十名ほどいた。「これよりこのヤボ(山)に、火を入れ申す。ヘビ、ワクド(蛙)、虫けらども、早々に立ち退きたまえ。山の神様、火の神様、どうぞ火の余らぬよう、また焼け残りのないよう、おん守りやってたもり申せ」

勝さんが呪(まじな)いをいう。火(・)の(・)余らぬ(・・・)よう(・・)は、延焼せぬようにの意味。ひとたび山火事が起これば、暮しの糧のすべてを失うことになる。

勝さんが予定地の上辺の風下に立ち、割竹の束を松明にして点火した。もし、山の下側から点火すれば、火が上に向かって走るだろう。火が走れば枯木の表面だけが焦げ、芯が焼け残る。火(ひ)退(ぞ)かし焼(焼き下ろす)でなければならないのだ。

バチバチ パンパン  バチバチバチッ パーンッパーンッ

点火から二時間余り、枯木がまたたく間に黑い灰となった。上昇気流が起こり、煙がひとつにまとまって昇ってゆく。

「六年ぶりの、いい焼け具合じゃ」  「火の神や風の神のおかげだからね」

ダイナミックであり、繊細でもあるこの焼畑農法。生きることの知恵と大自然への畏敬の心が、ひとつの形として継承されてきたことに驚く。「森(・)は守り(・・)に通じ、林(・)は生やし(・・・)に通ずる」という、言葉をかみしめていた。このあとは昼食、午後からは蕎麦を蒔く。消防の人だけを残し、いったん下山した。

蕎麦はこの地ではソマという。ヤボを守ることは、種を守ることと同じ。よく実って味も濃い蕎麦を選り分けながら、何百年も作り続けられてきた地(じ)ソマ(在来種)である。そのために六十六年も焼畑を繰り返してきたといっても、過言ではないだろう。自給自足の底力である。

蕎麦は地に熱のあるうちに蒔く。腰につけた籠から種を蒔く姿は、ミレーの絵画「種を蒔く人」そのままだ。蒔いたすぐ後から、スズ竹の束で掃き、灰をまぶせば発芽する。おおわく一年目は蕎麦、二年目は稗や粟、三年目は小豆、四年目は大豆を蒔き、それ以降は森に返す。そして三十年間、放置する。

さねさし相(さが)武(む)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも    弟橘媛

『古事記』中巻・景行天皇の条に、倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の東国征伐のおり、走(はしり)水(みず)の海で后の弟橘比売命が海神の怒りを鎮めようと自ら入水した。そのときに詠んだ別れの歌だ。さねさしは相武にかかる枕詞。「相武(相模)の野に燃え立つ火の中で、わたしのことを心配をしてくださった貴方よ」という意味。相武の国造にだまされ、火攻めにあったときのことを指している。

歴史物語から離れて読めば、「春の野焼の火の中で私に言い寄った貴方よ」となり、古代の農民女性の恋歌とも解せよう。

燃えさかる野火の炎を生けるもの捕らふるごとく人囲みをり     志垣澄幸

原始から人間は火をあおり、なだめつつ手の内に治めてきた。自然のなかで、生きる厳しさを感じさせる歌だ。

ながらみ書房『短歌往来』2013年10月号より

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