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藻塩

夏野菜が美味しくなった。トマトは甘味が濃く、胡瓜は噛むと水気が爆ぜ、レタスはちぎるとわりわり音がする。皿に盛りあげた夏野菜に少々塩をふりかけて頬張れば、暑さを乗りきる力が湧きあがる。

塩は味の決め手。台所にあった雪塩、ヒマラヤの岩塩、海人の藻塩(もしお)、あらしおなどを順に試してみたが、ふり過ぎて味覚があやしくなった。それでもゆったりとした海の香と濃厚な旨味が舌にさらっととける、薄茶色の藻塩が印象に残った。

・・・松(まつ)帆(ほ)の浦に 朝凪(あさなぎ)に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海(あま)少(おと)女(め) ありとは聞けど 見に行かむ ・・・

笠金村『万葉集』(巻六・九三五)

「・・・松帆の浦では朝凪に玉藻を刈り、夕凪に藻塩を焼く漁師の少女がいると聞く。だが、逢いに行こうにも・・・」との意味。

神亀三年(西暦七二六年)九月十五日、聖武天皇の播磨の国印南野への行幸のおりに詠まれた。「松帆にいるという藻を刈る美しい娘への憧れ」と「天皇の見納める土地への讃美」がこめられた長歌だ。

本州にもっとも近い淡路島の最北端の、明石海峡に面した岬がその場所。激しい潮流を挟んで明石の街を眺めているうちに、潮風に全身がじっとり塩たれた。

古くより松帆は製塩が盛んだった。朝凪のころ採った藻を海岸で干し、夕凪のころ火を焚き、藻の水分を蒸発させて塩を採った。この凪の時間にあがる真直ぐな煙に、旅情をなぐさめたのではなかろうか。あわせてここには、九月になると鷹柱が立つ。渡り鳥が空高く螺旋状に舞いあがり、一気に南へ渡ろうとするポイントでもある。だが、今は製塩はしていない。

来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

藤原定家『新勅撰集』(恋三・八四九)

「待っても来ぬ人を待つ私は松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように、毎日身も焦がれるような思いでいるのです」と熱い感情で詠む。定家は先の長歌を本歌取りにし、百人一首にも自選した。松(・)に待(・)つ(・)を掛け、恋に身を焦がすことと、藻塩の焦げることを掛けている。

藻はホンダワラのこと。遺跡から出土した製塩土器に、藻の空気袋の痕跡があることからもわかる。万葉集などにはなのり(・・・)そ(・)と詠みこまれた。日本では岩塩が採れないため、古代から海水を使って製塩されてきたが、どんな風にホンダワラが使われたのだろう。

古代製塩法を蘇らせた人たちがいる。広島県呉市蒲刈町の今は亡き松浦宣秀さんをはじめに、石井泉さんと後に結成された「藻塩の会」のメンバーだ。上蒲刈島の南西部では古墳時代から、日本の塩作りの原点ともいうべき藻塩焼きが行われていたことから研究し、次の製造法を確立させた。

①藻採集②藻の乾燥保存③土器製作④土器素焼き⑤炉用石集め⑥石敷炉づくり⑦燃料集め⑧濃縮⑨藻焼き⑩上澄み採り⑪煮つめるホンダワラを天日で乾燥させ、表面に出た塩の結晶を甕(かめ)に蓄えた海水で洗い出し、塩分を海水のほうに移す作業を繰り返す採鹹(さいかん)作業をする。そのホンダワラを焼いた灰を甕の海水に溶かすと、塩分やヨードなどの養分が出る。灰を布で濾し出して四倍の濃度の鹹(かん)水(すい)を作る。それを小さな土器に分け移し、煎熬(せんごう)という煮詰め作業をする。焦げ付かないように水分を飛ばすと、海藻が溶けこんだ薄茶色の藻塩が焼きあがる。

コツとして海水を煮つめる前、できるだけ水分を除いておけば早く塩ができる。ホンダワラを使えば水分が蒸発しやすく、甕に塩を残すための効率がいいこともわかった。

私が訪れたとき、体験学習の最中だった。「藻塩の会」のメンバーは塩焼きの最後の工程の煎熬(せんごう)を児童に教えつつ、こまかく指導をしていた。まさに手塩にかけた学習を見学させてもらった。

塩が『古事記』に記述される初めは、上巻の「伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)」の国生みの場面。二柱の夫婦神が天界から矛をさし下ろし、こうろこうろとかき鳴らして引きあげるとき、矛の先から塩のしずくが積もって島となったのが、淤(お)能(の)碁(ご)呂(ろ)島(しま)であった。

上巻の「海(うみ)幸彦(さちびこ)と山(やま)幸彦(さちびこ)」にも塩椎(しおつちの)神(かみ)(潮流を司る老翁)が小船を作り火(ほ)遠理(をりの)命(みこと)(海幸彦)を乗せて、海神・綿津(わたつ)見(み)神の宮殿に見送った。そこで、火遠理命は海神から塩盈(しほみつ)珠(たま)(満潮にさせる珠)と塩乾(しほふる)珠(たま)(干潮にさせる珠)の二つを授かった。

このように神話では、塩(・)は神聖な場面や祓いや浄化のおりによくあらわれる。ここで、塩の歴史にも少し触れたい。

古代から江戸時代末期まで、手作りに近い伝統的製塩だった。海水から作る方法は生産量が少ないので、貴重品として売買された。

明治時代、近代化とともに工業用塩化ナトリウム(工場で使う塩)の需要が増えた。日清戦争後、価格高騰で輸入に頼り、国内塩業が危うくなった。日露戦争時、戦費調達を第一目的に専売制を施行。塩不足は第二次大戦後も続いた。その後、生産量のあがる流下方式を開発。一九七一年に塩田を整理しイオン交換膜方式へ転換、工場生産へ移行した。

一九九七年(平成九年)に専売制度が廃止され、二〇〇二年(平成十四年)に製造販売が自由になり、地域の特性を活かした塩が各地域で生産されるようになった。

かつて厨には壺類が並べてあった。塩壺には塩が砂糖壺には砂糖がいっぱいあると、家中にゆとりの気分が漂ったものである。

「塩壺には塩をみたして置きたいね」父の怒りも遠くなりたり    山崎方代

ながらみ書房『短歌往来』2013年9月号より

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