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たたら炉

タタラロ 01 「じだんだ踏む」という言葉がある。かんしゃくを起こし、はげしく地面を踏むようすをいうが、いかにもという響きである。地踏鞴(じたたら)が音便変化したものだと辞書にはあった。

「地踏鞴」ってなんだろう。辞書を繰ってみると、足踏みによって溶鉱炉に空気を吹き送る大型ふいごのことで、古代から使われていたたたらやたたら吹きなどがこれにあたるという。そしてたたらを使った炉も、たたらと略していわれると載っていた。

そういえば熊野・吉野を巡ったとき、多くの伝承を聞いた。神武東征軍の抵抗勢力だった鉱山の女酋長の祠、いっぽんたたら(たたら師のお化け)、風を起こすうちわを持った天狗など。人々を怖がらせ、鉱山やたたら炉に近づけないための伝承だったのだろう。不思議なもの見たさに、私の心の種火がふつふつ燃えつづけていた。

願っていればいつか縁がつながる。今年の一月十九日のこと。一日に十本も運行していない木次(きすき)線の一輌列車に乗り、山陰の出雲横田駅まででかけた。雪、雪、雪のなか、石像の櫛(くし)名田(なだ)比売(ひめ)がむかえてくれた。翌日には日本刀の原料に使う玉鋼の製造をする、日刀保たたらで火入れ式がある。そこに出席をゆるされたからだ。

たたら炉は一月から二月にかけて空気の乾燥する時期に、三代(三回)の九日間のみ生産操業がおこなわれるという。一代につき、三日三晩にわたる不眠不休の、灼熱地獄の操業なのだ。結果、きわめて純度の高い玉鋼(たまはがね)が生みだされる。

玉鋼は強靭で焼きがはいりやすく、刀の材料としては世界にも類のない最高級の鉄である。たたら炉は古墳時代末期から、明治時代(一部では大正時代)までうけつがれていたが、効率のよい洋鉄業のためいったん衰滅していった。昭和五十二年より、日本美術刀剣保存協会(日刀保)が中心となって復活させている。

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ   山中智恵子

山中智恵子歌集『みずかありなむ』の巻頭歌だ。たおやかな文体に歴史と現代とがかさなり、人間であるプリミティブな悲しみを静かに伝えている。

『古事記』では高天原を追われた須佐之男は、出雲国の肥(ひ)の河の上流の鳥髪の地にたどりつき、八俣大蛇を退治した。そのしっぽから草那(くさな)芸之(ぎの)大刀(たち)がでてきた。そのあと、この地で生まれた櫛名田比売とむすばれている。

神話にでてくる鳥髪(鳥上)、肥の河(斐伊川)は奥出雲の実在の地名である。剣に象徴されるたたら集団や野たたら跡や鉄穴(かんな)流しの跡からも、古代国家形成の痕跡が見える。

次の日、横田町大呂の鳥上木炭銑工場をたずねた。注連縄のはられた作業場に入らせてもらうと、神棚に金屋(かなや)子(ご)神(たたらの守り神)が祀られてあった。木原明村下(むらげ)(村下とは作業責任者)や同席の人びとに黙礼をし、時間を待った。

すでに粘土で築かれた舟型の大炉に熾火がふいごで風が送られていた。化け物の寝息と思うほどのすさまじい音だ。音に威圧されて私の両足はすくんだ。

ゴウーッ、グウゥーッ、

ゴォオーッ、グウォーッ、

おごそかに神主の祝詞やお祓いが行われ、いよいよ今年の操業がスタートした。「これ、八俣(やまたの)大蛇(おろち)の目覚めみたいや」「そしたら、木原村下さんは須佐之男ってことやね」などと、隣りの人とささやきあった。

木炭と砂鉄が交互にふり入れられふいごの風にあおられて、炉は一五〇〇度の熱でいっそう唸り声をあげた。紫、金、赤に刻々と色を変えて透明にふきあがる炎は、炉のなかの鉧(けら)(鉄の塊)の成長を知らせる色でもあるという。木炭の燃焼と還元作用で、砂鉄を半溶融還元して鉄をつくる。私たちは畏れを持って火を見守った。

今期に使う砂鉄十三トン、木炭十三トンが積みあげられてあった。それでも玉鋼一トン採れるかどうかだと聞いた。今、ふいごは電動だが、昔は足踏みであった。全体重をかけたきびしい力仕事だったことがわかる。それを、地踏鞴といったのだ。

木原村下の的確な判断と采配で、若いたたら師たちは機敏に操業を続けていた。

比田(ひだ)の社の金屋子様を申しうけたよあらめでたや      (一番ブキの唄)

千駄万駄の金吹き出して村下(むらげ)様とはいはれたり          (トウマの唄)

今朝の夜明けの横引雲がさまのおもかげ見せもせぬ                  (コアケの唄)

江戸時代から明治にかけて謡われた、たたら唄の一部分だ。単調できびしい仕事をひたすら続けるために、拍子を取ってなぐさめにしてきたのであろう。独特の節まわしに哀切がこめられている。

かつては砂鉄をふくんだ山をくずし、水のいきおいで下流域に流し、洗い場へ移して砂鉄をとりだした。砂鉄から鉄を造るためにはたくさんの水と木炭が必要だった。森林を伐採して、洪水がひんぱんにおこったという。そして灌漑用水が不足し、田畑の作物に被害をこうむったのだ。そんな恐ろしい現象を、村びとが八俣大蛇にみたてて怖れたのだろうと、郷の人は話してくれた。

いつしかお供えされた鯛も湯立ての釜も、たたら火に照らされた顔さえも煤でうす黒くなった。温もった作業所の軒から、氷柱が滝のように音をたててすべり落ちた。

私はここ十年ばかり熊野を中心に巡り、古代の痕跡を点々と巡ってきた。今は点を線につなぎ、範囲をひろげようとしている。

あらためてふり返ると『古事記』や『日本書紀』の神話から、幻視行をしている自分自身に気がついた。一つの興味から何を引きだせるか、体当たり取材をしてみようと思っている。

ながらみ書房『短歌往来』 2010年8月号より

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