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琵琶湖の東岸に繖(きぬがさ)山がある。稲穂がゆったりそよぐ近江平野の、ちょうどまんなかあたりだ。約四三〇メートルの頂まで登れば、樹間から東に五箇荘(ごかのしょう)町、西に安土町が見下ろせる。五箇荘は近江商人の発祥地のひとつであり、師の塚本邦雄の生地などで知られる。「繖ってな、お蚕さんが口から糸を散らし出すようすをいうのや」と、町の人はいった。

安土町の安土城跡の東に桑実寺(くわのみでら)がある。『木曽路名所図会』(一八一四・秋里籬嶋著)のなかで、その縁起に、藤原鎌足の長男で僧の定恵(じょうえ)が六七九年(天武七)に、唐から持ちかえった桑の実をこの地で栽培し、あわせて養蚕の方法をおしえたとしている。古代中国の特産品だった綺麗な絹が、シルクロードによって遠くまで運ばれた。

蚕は『古事記』では食物神、大気(おおげ)都比売(つひめ)が須佐之男に殺され、その頭から生まれた。ほかには、仁徳天皇記の逸話にもあらわれる。

渡来人、奴理(ぬり)能美(のみ)が飼う「一度は這(は)う虫になり、一度は殻(かいこ)になり、一度は飛ぶ鳥になるあやしい虫」を磐之媛皇后に献上した場面だ。

つぎねふ 山代女(やましろめ)の 木鍬(こくは)持ち 打(う)ちし大根(おほね) さわさわに 汝(な)が言(い)へせこそ 打ち渡す 八桑枝(やがはえ)なす 来(き)入(い)り参(ま)ゐ来(く)れ

(六三)

山代女が木の鍬を持ち、耕し作った大根。掘り起こすとゆさゆさ葉が揺れる。そんな風におまえが蚕々とうるさく言うから、桑が一面に枝を張るように、こんな大勢でやってきたのだと、仁徳天皇が皇后に贈った歌。

善政で大規模な治水事業などをおこない、聖帝の世として称えられるほどであった。だが皇后の嫉妬は深く、怒って宮へもどらず、天皇が追いかけ、歌を詠んでなだめている。

養蚕は古く、渡来人(その代表の秦氏)によって伝えられたものとされる。秦氏は山代の国葛野(かどの)郡を本拠とし、近畿一帯に勢力をふるった大氏族である。

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ   斉藤茂吉

山蚕とは天蚕(てんさん)のこと。養蚕に対してそうよばれる。養蚕は人間が蚕を飼い、桑をたべさせて育てる。天蚕は山林のクヌギやナラなどの葉で自然に育ち、山繭ともいわれる。淡い緑色の繭で、糸には別格の光がある。

塚本邦雄は自著『茂吉秀歌 赤光百首』のなかで、ゴーギャンの自画像の強烈な印象とつぶされた山蚕の臭いをからめ、故郷の山形への思慕や罪の意識を、人間の業にまでつないで述べる。さらに「死にたまふ母」のなかの、「山蚕は青く生れぬ山蚕は」や「山蚕は未だ小さかりけり」から、山蚕は茂吉の執したものの一つだったと解く。

私は幼いころ親類のおばあさんから、蚕の佃煮をたべたとか、蚕のたべ残した桑を牛にあたえたとか話すのを聞いていた。明治、大正、昭和と生産していた地も、生糸相場の変動、たびかさなる水害、繭価格の低迷を繰りかえしたことで、すっかり激減していた。

私は養蚕地を尋ねることにした。

蚕飼い唄

蚕すんだら早よもどれよと親が待つより様が待つ

蚕飼いすりゃ乞食よりおとる乞食寝もする楽もする

乞食寝もする楽もするけれど飲まず食わずで門に立つ

様は行かるか蚕を飼いにわしも行きたや桑摘みに

『蚕飼女の今昔』所収

京都府福知山市の由良川流域は、明治のころアメリカへ生糸を輸出し、養蚕王国となった。そんな農家に雇われた人たちが唄っていた。生き生きした男女のかけあいに、乞食より待遇がいいかどうかという内容には、びっくりする。

養蚕(蚕飼い)とは、蚕蛾の卵から幼虫を育て繭をとることをいう。その間、じつにこまやかな言葉が使いわけされている。まさにお蚕さまあつかいだった。

飼育のはじめは掃立(はきたて)という。産卵紙に産みつけられた卵から、幼虫、蛹となるまでが約三十日間だ。時期を変え一年に何度も飼うことができる。季節により、春蚕(はるこ)や秋蚕(あきこ)などという。孵化したては黒い小虫であり、毛蚕(けご)や蟻蚕(ぎさん)という。

一回脱皮をすると毛がなくなり、黒色から白色に変わる。脱皮する前に、蚕の眠りがある。食べずにじっとしているのだが、ふつうは四眠四起して五センチほどになってから、透けた蒼白色となって繭をつくる。

眠りにはいる様子をいぶり、眠ると眠蚕、起きるといおきという。

桑の葉をさかんにたべるのが五齢期だ。蚕どきとか蚕ざかりとかいう。やがて全身が黄金色に透きとおり、繭をつくるところを求めてさかんに這いまわる。これを熟蚕(じゅくさん)という。熟蚕は上に這いあがる習性があり、繭を作る蔟(まぶし)をのせると自然に這いあがる。これを上蔟(じょうぞく)という。

『蚕飼女の今昔』(繭花の会著)には、大正十二年ころ、農家が雇い人へ支払った日当の値段は忘れられてしまったが、普通の人の二割り増しだったと記録されている。朝三時から夜十時までの労働からすれば、正当な支払いとはいえず、かなり過酷だったようだ。ちなみに当時、兵隊の日給は小遣い程度の十二銭で、餅一個が一銭で買えたという。

福知山市には京都の着物文化をささえ、養蚕をする家が三軒ある。その一軒の桐村さん宅では農閑期のひととき、出荷しなかった二等繭をつむぎ車で糸をひき、糸巻き車で繰って、自家用の一結束にしておくという。私もおそるおそる糸をひかせてもらった。

女性なら絹衣を見るだけで、幸せな気持ちになる。そして蚕飼いから衣に仕上げるまでの工程を、みずからの手でつくりあげる誇りと喜びは古代から変わらない。だからこそ、着る人をとびっきり輝かせられた。

ながらみ書房『短歌往来』2010年9月号より

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