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木炭·太安萬侶墓

太安萬侶墓_0010 奈良盆地の市街地から東へ山間の道を車で三十分も走れば、稲田と茶山がひろがる田原の里に入る。県道から農道へ、北にすすむと此瀬町だ。山の中腹に桜の木と石柱が見えてきた。

車を麓に置いて五分ばかり、心臓破りの坂道をよたよた登った。

石柱には「太(おおの)安萬侶(やすまろ)墓」とあり、斜面に墓が円形に小石で囲ってあった。そこからぐるっと茶山を見渡すと、八月の照りつける陽のなかにヒグラシが、まるで千年の昔からの響きのようにか細く鳴きはじめた。平城京とは高円山で隔てられたここには、志貴皇子や光仁天皇の御陵もあり、まさに殯(もがり)の山里となっている。

太安萬侶はわが国の最古の歴史書、『古事記』の編者だ。実はそれ以前にも、『帝紀』や『旧辞』と呼ばれるものがあり、天武天皇は記憶力に秀でた舎人(とねり)とも巫女ともいわれる稗田(ひえだの)阿礼(あれ)に、これらを読み習わせた。元明天皇の代、勅により稗田阿礼の誦するところを学者であった太安萬侶が筆録して編みあげ、七一二年(和銅五)に献上したものである。

今から三十四年前、竹西英夫さん所有の山で茶の木の植えかえ作業中に鍬で掘っていたとき、偶然見つけたのがこの火葬墓だった。この「世紀の大発見」の生々しいようすは、奈良県立橿原考古学研究所編の調査報告書に記され、また同所属博物館に墓が復元されている。

竹西さんは木炭の破片が出てきたので、初めは炭焼きの跡かと思ったという。次に立派な炭がざくざく出てきたので、家で使おうと順に拾いあげ乾燥させていた。だんだん掘りあげる炭の量が増え、突然の囲い炭が崩れ、一挙に櫃の腐朽の空洞があらわれた。その空洞のなかに、こんもり積まれた灰のなかから骨が出てきたのである。

菓子箱に骨上げをしてひとまず、近くの寺にあずけられた。底を見ると、腐った板の裏には銅版の墓誌が貼られてあった。現場にいた近所の川端茂男さんとともに銅板の字を判読した。

「古事記かかはった人やがな、ほんまやろかな。こんな、偉い人・・・。えらいもん出ましたなあ」

川端さんは驚きのあまりに、足ががくがく震えたという。

奈良県立橿原考古学研究所の調査により、底に木炭を敷いて墓誌を置き、その上に木櫃を安置、まわりと上側を木炭でおおった木炭槨であった。さらにその上にうすく全体に木炭を敷いたあと、砂質土を版築状に硬くつき固めて、木櫃のなかには火葬骨や副葬品の真珠がおさめられてあったことがわかった。

孝徳天皇大化二年に出された、「大化の薄(はく)葬(そう)令(葬儀の簡素化)」の影響があったのだろう。天皇にしたがった役人のなかでよく採用されたという。墓誌の銅板には、「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」と刻まれ、居住地、位階と勲等、死亡年月日、埋葬年月日が記されてあったので、太安萬侶と限定できたのである。これは『続日本紀』に記された、養老七年七月七日の没年月日とたった一日違いであった。

木炭にはカシ、リョウブ、コナラ、シデ、サクラ、ミズメなどが使われていた。これらの種類から、当時も温暖な自然環境にあったことがわかる。山鳥が鳴き、猪や鹿が走り、人々が木の実を充分に採集できる森に囲まれていたのであろう。

千二百年以上もの間、湿度や黴菌から櫃を守り、歴史事実をこのように証言することができたのは、まさに木炭の力であったといえるのだ。

わが国最古の木炭といえば、およそ三十万年前のものと考える。愛媛県肱川(ひじかわ)町「鹿の川洞窟に、人骨や石器類と一緒に少量の木炭があった。また、中国長沙市(チャンシャー)郊外にある馬王堆(まおうたい)の墓から見つかった女性のミイラには、二千年以上もたっているも、肌の弾力が残っていたという事実は知られている。

これらから空気がさらっとした場所であれば、湿気をとり水分を乾燥させ、保存には大変有効となることがわかる。しかし、すべてに防腐効果があるわけではない。吸湿性、保水性があるために水分を多く吸収し、酸化を早めることになる場合があるという。

記紀歌謡には樹木が豊かに表現されているが、木炭そのものは詠われてはいない。

萱山に 炭竈ひとつ残り居て、この宿主は戦ひに死す        釈迢空

若き日を炭焼きくらし、山出でし昨日か既に 戦ひて死す

養嗣子である春洋のおもむいた、硫黄島の玉砕が発表された三年後の昭和二十三年に、『遠やまひこ』が刊行された。人里離れた山中の炭焼き小屋にも、敗戦の影がくっきりとある。主のない炭竈跡を虚脱の心で見ると、まるで異界のたたずまいのようだ。

「うちの婆やん、向かいの山の葉の繁り具合見て、炭が何俵ほど焼けるんか判るっていいやったよ」

熊野に住む知人には、炭の焼き子だった祖母がいた。炭焼きだった連れあいは戦死し、しばらくひとりで炭竈を守っていた。

祖母と一緒に山の炭小屋に寝たときは、炭よりもまだ黒い闇が降ってきて、樹の間からこちらを伺う鹿たちの目が光ったという。罠に引っかかったウサギを、味噌煮で食べたり、小屋で茶粥を炊いたり、姥芽樫の幹にいたカミキリ虫の幼虫を炙って食べたこともあった。カモシカをイヌがあわてて追ったのか、匂いを嗅ぎながら追ったのか、足跡で判断できた祖母が自慢だったことなども話してくれた。

そんななかから、私には焼いた炭を麓へ運ぶ馬子の声が、「ほうーい、ほい」と聴こえてくる。

ながらみ書房『短歌往来』2010年10月号より

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