和琴
瀬戸内の海は、いつ見てもおだやかだ。道路のきわまで水位があり、たっぷたっぷ音をたてている。
九月初旬、広島県の福山駅からバスに乗って三十分、私は風待ちの港、鞆の浦に立っていた。鞆の海にドビッシーの「海」が耳に浮かぶといったのは、琴の演奏家で作曲家の宮城道雄である。父祖の地として故郷のように愛し、一九二九年に「春の海」を作曲した。
宮城道雄は肌にふれる空気や音のひびきで、時間の移ろいがわかったという。
私も防波堤にもたれ目を閉じてみた。小海老の干した匂いや鉄の焼ける匂いがまざり、舟のエンジンの音が遠ざかった。路地から浜へと杖をついたあと、舟人に抱えられるように遊覧船に乗りこむ宮城道雄を思った。
鞆の浦から海路を東南に回ると、友ヶ島水道に面して淡路島の由良がある。『古事記』下巻・仁徳天皇の、「枯野といふ船」の舞台になったところである。
枯野(からの)を 塩(しほ)に焼き 其(し)が余(あま)り 琴(こと)に作り
掻(か)き弾(ひ)くや 由良(ゆら)の門(と)の門中(となか)の海石(いくり)に
振(ふ)れ立つ なづの木の さやさや
淡路島に湧く清水を仁徳天皇に献上するために汲みに行く、枯野という船があったが破損した。その廃材で塩を焼き、その焼け残りの木で琴を作ると、その音は遠く七村にまで響きわたった。そこで人々はこの歌をうたった。波に揺れつつ生えている海藻のように、さやさやとその琴の音が鳴るのですと。「由良」「なづの木のさやさや」が、波や琴や清水にまでつらなる綺麗なリズムである。ちなみに船は菟寸河(とのきがわ)(現・和泉市)の西に生えた、樹で造られている。
琴の起源を知ろうすれば、考古学的な遺物は、大切な史料となる。縄文時代や弥生時代から、弾く・吹く・打つの楽器類が多く出土している。そのなかには石笛や銅鐸などにまじって、板作りと共鳴の箱のついた槽作りの二種類の琴があり、膝にのせた埴輪の男性像まで出土している。
『古事記』『日本書紀』には、その鳴音によって降神・託宣をする記述があり、古代の呪性が具体的に見える。それらはおおよそ五本か六本の弦が張られた小形の琴で、今日の六弦の和琴(わごん)の祖形と考えられる。膝の上でバラバラン、バラバランと、簡素に弾かれたその音に神の意志が降りてくる。
時代は移り、正倉院には六弦の和琴、七弦の唐琴、十二弦の新羅琴(しらぎごと)、十三弦の雅楽演奏用の楽筝(がくそう)、二十四弦の瑟(しつ)など、さまざまな弦楽器が伝えられる。現代の私たちが知っている琴は、正倉院に残る楽箏(がくそう)と本質的に変わらないという。そしてその起源は、古代中国に始まっていたようだ。とすれば「枯野」は「唐の」を、ひびかせているのかもしれない。
もともと「筝(そう)」は弦に柱(じ)を立てて整律するもので、「琴(きん)」は柱をたてずに指で押さえて弾くものをいう。江戸時代からこの二つを混同して、「琴(こと)」とよんでしまっている。現代のものには、箏をあてるのが本来なのだ。
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴(をごと)にもたす乱れ乱れ髪 与謝野晶子
たまくらに鬢(びん)のひとすぢきれし音(ね)を小琴(をごと)と聞きし春の夜の夢
一九〇一年刊行の『みだれ髪』には、恋の美酒に酔いしれた黒髪ながき乙女の晶子が、一人の男を得た喜びをはばからずに詠んでいる。黒髪のからむ小琴には、一途なのめりこみによる呪性すら感受できる。
福山市は琴の生産地として名高い。鞆の浦から五〇分ばかり、北へ進んだ。
「日本の古曲を弾くには、力と粘りのある音が要るんでのう、会津桐を使うんよ」というのは、藤井琴製作所の藤井善章さんだ。日本の曲は、国産のもので弾くにかぎると胸を張る。外材のもので弾くと、音が淡白になってしまうというのである。
桐の成長は速い。温暖なところでは四十年もたつと、大木に成長する。だがその品質は劣る。東北地方のやや寒冷なところでは、成長は遅れても緻密で良質の桐材となる。さらに水分の多い山肌に生えているものに、銘木があるという。会津桐のほかには、南部桐も名高いと聞いた。
琴の出来る工程をあらかた述べたい。①原木の皮はぎ、幅切り、甲挽きをする。②一年ほど外におき、自然乾燥させる。③ここからが「甲造(こうづく)り」の作業だ。機械で荒削りした甲の内側に、手鉋をかける。④糸受け、梁板(はりいた)、関板(せきいた)などの補強部分を取り付ける。甲の内側に、音響のために子(こ)持綾杉(もちあやすぎ)彫りをほどこす。⑤甲と裏板の加工が終われば、二つをあわせ、二本の横棒を並べ、縄でぐるぐる巻きつけ、棒の間にくさびを差して糊がかわくまで締めつける。⑥焼きゴテで表面を焼いて、堅くする。⑦炭化したところを取りのぞき、木目を浮きあがらせる。⑧イボタ蝋の粉をかけて擦り、桐の光沢を出す。⑨ここからが「装飾」の作業だ。マメ科の紅木(こうき)や象牙を切り、磨き、琴の各部分に取りつける⑩芯座などの金物を取りつけると出来あがり。あとは音穴(いんけつ)から糸を繰り出して先端を一本づつくくり、演奏者の好みに応じて、弦が張られる。
「甲造り」を藤井善章さんが、「装飾」を竹縄敏昭さんが、それぞれ技をふるうのだ。
藤井さんは炎天下に、一〇〇〇度以上もある炉で、五キロほどの鉄コテを真っ赤に灼いて待っていてくれた。甲の表面に、焼きを入れる作業を見せてくれるためである。コテの表面にある酸化物をヤスリで取りのぞいてから、一気に焼きあげると、独特の木目模様があらわれた。すさまじい匂いとともに火や煙が噴きあがり、灼熱地獄さながらであった。
私はカメラのシャッターを押し続けた。
ながらみ書房『短歌往来』2010年11月号より
NO COMMENT
COMMENTS ARE CLOSED