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相撲

姉から小包が届いた。義兄が逝き六年、整理した遺品の一部が入れられてあった。私はそこから昭和六十年八月三日の、読売新聞のトップ記事を見つけだした。

世界最大の戦艦「大和」(七二、八〇〇トン)の戦没者鎮魂のため東シナ海で海中探索を続けていた「海の墓標委員会」(辺見じゅん委員長)は、二日までに、約三百四十メートルの海底で爆裂して横たわる「大和」を潜水艇で確認、写真、ビデオ撮影を行うとともに遺品の一部引き上げに成功し、元乗組員や設計者らも「大和」と断定した。

昭和二十年四月七日、沖縄特攻作戦に向かう途中の東シナ海で、米軍に撃沈された巨艦が、四十年ぶりに確認された衝撃と感慨をつたえていた。海底に眠る緑金の菊の紋章が大きくカラーで写されてあり、戦没者たちの魂のよりどころにも見えた。

「うちの人なあ、戦艦大和の相撲部員やったんや。マリアナ沖やらレイテ沖にも行ったっていうてたよ。生き残って私と所帯もったけど、腑抜けになってしもてたんよ」

姉は電話でふっと溜め息をついた。

大正十四年生まれの義兄は十八歳から四年あまりの間、「大和」の乗組員だった。少年のころから相撲が強く、県代表として靖国神社へ試合に出かけたこともあったという。調理師の免状を取得していたので、食事調達の部署に配属された。特技を生かし、相撲部員として対抗戦などで活躍した。当時の軍艦内では、訓練や整備のあい間をぬって柔道・剣道・相撲などの鍛錬がさかんであった。

普段の仕事は食料の補給・調理・配食などだ。ひとたび戦闘になれば弾火薬庫から弾薬を砲手に運搬するなど、応急にも対処した。

ダダ、ダダダダダダ、

キューン、キューン、

機銃群の射撃音とともに、機銃弾が空に向かって飛びだす。間髪をいれず高角砲、機銃などがいっせいに火を吐く。敵機は艦すれすれまで降下、乗員の高い鼻までわかるほどの至近距離に来て、するりと体をかわして舞いあがる。砲煙、水煙がしきりにたちこめて、あたりは修羅の海となるのである。

火炎がざんざんと降るなか、右舷左舷の甲板を走りまわり、目前でばたばた倒れる戦友たちをかき集めた。血が流れるなか軍医の指示のもと、遺体も助かりそうにない人をも、一緒に浴室に積みあげた。そして戦いが終わった朝まだき、鎮魂のラッパが鳴るなか白布に包んだ遺体の一体づつに敬礼し、滑り板から海底に鎮める水葬をおこなったのである。

義兄が生き残ったのは、沖縄特攻前にちょっとした用事で戦艦から降りていたからだという。三千余名の戦友が海に散ったあと、好きだった相撲を取らなくなった。

明治末期以降、「国技」と称されるようになった相撲は、戦時下のナショナリズムの高揚を追い風として、活況を呈している。純然たる武技であり、力士と称する武士であるという精神で、「国策」の色あいが濃かった。天皇に奉仕する優秀な武士、兵士たるべき国民の修行の道としての相撲道という意識をあおったのだ。西洋のスポーツの野球から相撲へ、国民の関心も高まった時期である。それは「相撲錬成歌」の「・・・攻めと守りの十五尺 鍛える我ら 鍛える我ら 相撲道」の歌詞にも、よくあらわれている。

義兄にとっては、艦首に飾られた菊の御紋のもとで相撲を取る緊張感と高揚感には格別のものがあったろう。不動の姿勢で語っていたことを思い出しつつ、遺品をしまった。

千万のまなこの前に倒れゆく力士の妻は哀しかるべし   稲葉京子『秋の琴』

テレビの相撲観戦が娯楽となったとき、庶民のなかでは神事や相撲道といった意識がうすらいだ。格闘家を夫にもつ妻は、宿命とはいえ厳しいものがあるだろう。

『相撲の歴史』(新田一郎著)には、「すもう」は「あらそうこと」「あらがうこと」の意で、格闘そのものをいうのだとある。古形は「すまひ」であり、中世後期には音が通ずることから「相舞」「素舞」など表記するものもある。「相撲人」は「すまひびと」。朝廷年中行事「相撲節会」は「すまひのせちえ」。「すまひ」から「すもう」へ転訛した時期は確かではないが、中世末期に編纂された『日葡(にっぽ)辞書』の見出しの語には「スマゥ」があり、『義残(ぎざん)後覚(こうかく)』にも「すまう」の語があるから、このころまでには「すもう」の音がもちいられていたようである。

『古事記』では健(たけ)御雷神(みかづちのかみ)と健(たけ)御名(みな)方神(かたのかみ)との闘いを、最古の相撲としている。『日本書紀』では垂仁天皇七年に野見(のみの)宿禰(すくね)と当麻(たいまの)蹶速(けはや)の闘いがあり、雄略天皇十三年に采女相撲があり、皇極天皇元年には健児(こんでい)相撲がある。そのなかで「相撲」の文字がはじめて記述されたのが、雄略天皇の章だ。

猪名(いな)部真根(べのまね)という木工がいた。終日、斧を振り木を削っても、誤って刃を傷つけることはなかった。天皇がお尋ねになっても、「決して誤ることはありません」と申しあげた。天皇はその慢心に対して策略をめぐらした。采女(うねめ)を召集して、衣類を脱いで犢鼻(とうさぎ)(ふんどし)を着けさせ、よく見える場所で相撲をとらせた。すると真根はしばしば手を止めて仰ぎ見て削ったため、思わず手もとを誤り刃を傷つけた。天皇に対し思いあがりの豪語をなした罪を問われ命を奪われるところ、その技術を惜しんだ同僚の進言でやっと許されたという話だ。今ならばセクハラ大事件。有無をもいわさず采女を裸にした絶対権力は、まことに恐ろしい。

十一月中旬、奈良の葛城を歩いた。当麻町の蹶速塚まで来て二上山を仰ぐと、すそ野の紅葉は錦繍をまとい、横綱の化粧回しのようにひときわ華やかだった。

ながらみ書房『短歌往来』2011年1月号より

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