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鯨・遠洋捕鯨

「イルカと鯨の違いってなに?」と、よく聞かれる。動物分類学上は同じ仲間であり、イルカは体長五メートルまでのもの、それ以上を鯨と呼びわけている。英語ではさらにイルカを鼻の長いドルフィンと、ずんぐりした口のハーポスにわける。また、オルカ(シャチ)は体長七~九メートルもあるため、鯨の仲間と呼んでいる。

鯨とのかかわりは、日本では縄文時代にまでさかのぼる。大きい鯨の場合には捕獲ではなく、生きたまま座礁したり、死んで近くの海に漂っていたり、打ち寄せられたりの「寄り鯨」「流れ鯨」を食料にしてきた。小さいイルカの場合には岸に追いこんでから、石の銛や槍で捕獲したと思われる。

石川県の能登半島の真脇遺跡では、いまから約五〇〇〇~三五〇〇年前の縄文前期から中期にいたる地層のなかに、多量のイルカの骨が見つかっている。北海道の東釧路遺跡、福井県の鳥浜貝塚、千葉県の稲原貝塚をはじめに、各地からイルカや鯨の骨とともにその時に使った石製の銛や槍、鯨を解体するときに肉を切ったり皮を剥いだりした石器類、調理に使われた鯨油のついた土器の破片までもが見つかっている。

同時に、イルカの頭骨を並べた祭祀跡まであったことに注目したい。アイヌ民族の「送り場」のような、神聖な場だったのだろう。縄文の人々がなんらかの自然を超えた力を、感受していたことはまぎれもない。

ふりかえれば終戦っ子の私たち世代は、鯨肉にはずいぶんおせわになった。食べ物のほとんどなかった時代、育ちざかりの身体に補給できた大切な蛋白源だった。なかでも伯母が作った一品は、家庭の特別食としてなつかしく思い出される。

ほどよい大きさに切った鯨肉を、生姜醤油に五時間ほど漬けこんでからフライパンで焼いた。そのあとの残り汁に白飯をいれ、さっと炒めた。野性的で重厚な香りが、家の外にまでただよった。「いただこかえ」という伯母の声を合図に、私たちは皿の鯨肉に両手をあわせてから箸をつけた。

一九四六年(昭和二十一)、敗戦から国民をおそった深刻な飢えによって、なかば国策事業としておこなわれたのが南氷洋捕鯨だった。半年がかりで遠く南極の海へ捕鯨に出かけ、巨大な鯨と格闘した男たちがいた。一九四六年の春、第一次南極捕鯨から船が東京港に帰ったとき、その男たちによって牛十三万頭分もの肉が陸揚げされた。まさに鯨は飢えから立ちあがるための、日本の切り札だったのである。

和歌山県の太地町に住む、日本小型捕鯨協会会長の磯根(いわお)さんを訪ねた。鋭い眼光と伸びた背筋、ほとんど笑わない武将のような風貌の人である。一九二七年に太地町で生まれて、二十一歳で小型捕鯨の乗組員となり、二十五歳のときに砲手となった。昭和三十一年から十二年の間、大型船の南氷洋捕鯨に参加していた。

砲手は野性的カンが鋭い。シロナガス鯨が海面に浮上する時間は一回につき五秒間、ミンク鯨は二秒間だ。その一瞬にねらいを定めて銛を打つ。四十四年間、鯨を追い続けて実に五〇〇〇頭もの鯨を捕ったという。

一九五五年(昭和三〇)ごろ、この町から三〇〇人以上もの男たちが南氷洋に出かけたことからもわかるように、男子なら誰しもが砲手となって捕鯨船に乗るという夢があり、女子なら誰しもが砲手の妻になる夢があったという。

夢がかない世帯を持ったとしても、出漁のために、家に帰るのは年に数日のみとなる。磯根さんはそれでも三人の子供に恵まれた。父親の顔を知らない娘からは、航路から帰っても怖がられ、いたずらを叱った下の息子からは、「お前の家は船だから、船に帰れ」といわれたと笑う。

母船式捕鯨と大型捕鯨においては、IWCによって商業捕鯨モラトリアムが決定し、一時停止となった。残る希望は小型捕鯨業のみだ。捕鯨事情がますます厳しくなるなか、磯根さんは捕鯨存続を願う太地の心意気を示そうと、第七勝丸を一九九八年に新造した。

今はご子息の磯根司船長に夢を託し、みずからは小型捕鯨業の存続と地域コミュニティの再活性化にむけて、ひたすら現場の声をあげている。

『古事記』中巻の仲哀天皇の章に、応神天皇が皇子のとき、越前の角鹿(敦賀)の浜で地元の神に入鹿魚を贈られている。

(はな)(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)(よ)りき。(ここ)に、御子(みこ)、神に(まを)さしめて、(い)ひしく、「(あれ)御食(みけ)(うを)(たま)へり」といひき。

鼻に傷のついた座礁イルカが、浦いちめん埋め尽くすように浜に寄っていた。これを見て御子が使者を通じて神に申しあげさせるには、「神は私に食料の魚をくださった」と言った。寄り鯨を神の恵みだと歓喜した御子一行が描かれる。『古事記』のみならず、座礁した鯨が浜辺の人々を潤したという話はあちこちに残っている。

雲かかるわだのみ中にあらしほをあめとふらせて鯨うかべり     加納諸平

江戸時代の国学者で歌人の加納諸平も、ホエール・ウオッチングの感動をそのまま歌にしている。藩の『紀伊続風土記』編集に召し出された来歴から、南紀で見たものと判断する。「あめとふらせて」が近景描写であり、湾に入った鯨を詠んだのではなかろうか。

時代は自然保護、環境保護の方向に加速した。鯨はそのシンボルだ。だが、「かわいそう」などの、安易な感情はつつしみたい。人もそこに生命を賭けてきたのだから。保護も過ぎれば、必ず有害となる。

ながらみ書房『短歌往来』2011年5月号より

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