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二月の冬晴れのある日、友人のはからいがあり、へリコプターで山岳修験の大峯(おおみね)奥(おく)駈(が)け道を上空からたどることができた。

大阪を出発、奈良の大峯山系から和歌山の熊野山系沿いに南下した。さらに串本の大島までコースを伸ばし、そこから古座川を北上して高野山系、葛城山系をたどってもとに着地するという二時間半のルートであった。ちょうど紀伊半島上空に、三角形を描いたことになる。

奈良時代の呪術師の役小角が開き、平安初期の僧の空海ほか、多くの人々が修行した奥駈け道。ここには七五靡(なびき)という、七五ヵ所の修行場がある。吉野川の七五靡・柳の宿(しゅく)から熊野の一靡(いちのなびき)・本宮大社までをひたすら歩く修行なのだ。通常、十日間をかけて縦走する。

峰々を空から見渡しながら、吉野郡上北山村まで来た。上北山村は壇ノ浦で滅んだ平氏一族によって、開かれたところといわれる。眼下の六三靡・普賢岳(一七七九メートル)山中には、六二靡・笙の窟(一四五〇メートル)があるはずだが、雪に隠されてわからなかった。私は五年前、脇道から登った。

橅(ぶな)の自然林のなかに霧がたち、仙人草や鳥兜が溢れるように咲いていた。窟へは急峻な坂道、鎖場、鉄梯子などを這いつくばってたどりついた記憶がある。登ったら登った分だけ下らなければならず、下ったら下った分だけ登らなければならない。赤文字の「転落多し!注意」におののき、逃げ出せないのが修験道だと身にしみた。

笙の窟そのものは一〇〇メートルほどの岸壁で、下にこっぽり口があいている。高さ四メートル、幅十二メートル、奥行き七メートルの洞になっていた。『吉野物産志』には、「金、笙窟に生金を産す」と記されており、掘削された跡が見られることから、鉱山だったのではといわれる。経済の裏づけがなければ、平氏だって逃げこめなかったろう。

山から鉱物が出たから、それを神として祀った。祠のあるところが鉱山であり、鉱脈を聖地として囲いこんだと考えると、聖地も急に人間臭を帯びてくる。吉野が鉱山都市であったことは、別のおりに触れようと思う。

洞の中は真っ暗で、そこから見ると外はまぶしいほど明るかった。死と再生の境界のようだ。ほかにも指弾(しだん)の窟、朝日の窟、鷲の窟などが寄りあい、あたり一帯はただならぬ山の気息に充ちていた。

今ごろ窟には、氷柱が鬼の歯のようにさがっているだろう。岩肌を北風が削ぎあげているだろう。突然、ヘリコプターの前面ガラスを雪の五一靡・八経ヶ岳がふさいだ。「でっかい!」と叫ぶ間に、ヘリコプターは高度を上げてついっと越えた。

寂莫の苔の岩戸のしづけきに涙の雨の降らぬ日ぞなき        日蔵上人

草の庵なに露けしと思ひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり      行尊大僧正

露もらぬ岩屋も袖はぬれけりときかずばいかに怪しからまし     西行法師

歌からも窟籠りの行場として、つとに有名だったことがわかる。冬籠りを初めておこなったという平安後期の園城寺(おんじょうじ)の行尊(ぎょうそん)や平安後期から鎌倉初期の歌僧の西行をはじめとして、皆きびしさに涙したところ。とりわけ平安中期の道賢(どうけん)(日蔵)の臨死体験は衝撃的だ。

『道賢上人冥土記』によるとうち続く天下国土のわざわいを鎮めようとここに来た道賢は、断食や無言の籠りのすえに息絶えた。そして冥界の極楽・地獄めぐりを十三日間もした後、蘇生した。蔵王菩薩の引きあわせがあってめぐりあった菅原道真は彼に、「我は日本太政天である」と名乗り、天下の災難は自分の眷属たちがおこなったものだと告げる。さらに道賢は地獄を巡るうち、醍醐天皇をふくめ道真左遷をくわだてた人物たちにあう。

赤い灰の上にうずくまり、嗚咽していた醍醐天皇は、「わが身の辛苦、すみやかに救済すべし」と助けをもとめた。蘇生した後、朝廷に奏上して、菅原道真は天神として祀られることになったという。ここからも窟が、冥界への通路であることを示している。

飛行中、地図を見ながら紀伊半島を一つのボディーに仮定してみた。本州最南端の大島から本宮大社をたどり、そのまままっすぐ北に定規をあてると玉置山、飛鳥京、平城京、平安京があり、若狭彦・若狭姫神社から日本海にすこーんとぬける。ちょうど半島のど真ん中だ。これは古代からの倭(やまと)の背骨のラインということだ。飛鳥京、平城京、平安京という古代首都は臓器の部分にあてられよう。そして千万の峰をつらぬく道は、ボディーをめぐる経絡(気の通り道)に見える。経絡のうえには修行場というツボがある。修験者たちは臓器が活発に働くように、ツボで邪を祓って地霊の力を起こし、新陳代謝をおこないながら見張りをし、自らの霊力もたかめていたということになる。

奥駈け道のさらに東側には、伊勢から本宮大社にいたる熊野古道の伊勢路がある。背骨の西側には、葛城古道や熊野紀伊路がある。

臓器を中心に経絡が何重にも張りめぐらされているのである。裏から表へ、光から闇へ、死と再生への循環の構図もかすかに浮かぶ。一命をかけて山岳を踏破してきた彼らの一歩一歩は、都にむかって大きな意味を持っていた。

いそ松の朝かぜに心みそぎして花のいはやに花たてまつる     佐佐木信綱

『日本書紀』巻・第一には「花の時には亦(また)花を以(も)ちて祭る」とある、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御陵と伝わる花の窟だ。紀伊国・熊野の有馬村(三重県熊野市)にあり、社殿のない大きな磐からなっている。現在でも毎年二月と十月に花を飾り、舞を捧げる「お綱掛け神事」が行われている。昭和十五年に大阪・河内であった西行の記念の式典のあと、当地に訪れたときに詠んだ歌。

むこう側とこちら側の境界である窟の前に立つと、いつも心がざわめく。むこう側から目に見えない何かが伝達されてくるからだ。それは古代から目覚めたばかりの声とでもいおうか、血の温もりがともなう懐かしい感情とでもいおうか。なんだかとても嬉しいものなのだ。

(写真提供:楠本弘児)
ながらみ書房『短歌往来』2011年6月号より

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