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地 震

 古来より日本の風土は、私たちの繊細な心を育んできた。湾になった白砂の海岸、深い渓谷にそよぐ照葉樹、火山の裾野の草など、そのそれぞれの景が四季の変化とともに、こまやかな表情を見せている。そんな自然現象から「花鳥風月」の美意識を見いだし、芸術性が高められてきた。

 地図を広げた。千島列島から日本列島へ、さらに南西諸島へと、細長い島々が紐に花を結んだ花綵(はなづな)のように、優美なカーブを描いている。そしてそこに、細長く凹地が西側に寄り添っている。日本海溝、南海トラフなどと呼ばれるものがこれにあたる。こんな島々と凹地が並んでいるところでは、二つのプレートがぶつかると聞いた。

 いい換えれば、日本列島を乗せたユーラシアプレートの下には、凹地を境に太平洋プレートやフィリピン海プレートがもぐりこみ、つねに押されるためにエネルギーが歪んでいる。優美なカーブを描いた花綵列島も、プレートにしぼりあげられるように隆起して出来た、地球の皺といえるだろう。

 ぶつかった断層とよばれる破壊面から、エネルギーが一挙に放たれれば地震がおこる。津波を起こすこともある。また、マグマだまりからマグマが噴出し、火山の噴火となる。私たちが心を動かされた美しい風景とは、るいるいと積みかさなった地殻変動の後に結着した、地表の様相なのである。

 『日本書紀』には、地震の記録が克明に記されている。現代でもその痕跡が確認されているところから、内容に矛盾のないことが確認されている。

 日本最古の記録は、允恭(いんぎょう)天皇五年七月十四日の項、「五年秋七月丙子朔己丑、地震」とある。五年秋七月の丙子朔(へいしついたち)の己丑(きちゅう)(十四日)に地震があったという意味だ。西暦では四一六年八月二三日にあたる。地震は なゐふる と読む。な(地)ゐ(居)ふる(震動する)だ。

 被害での最古の記録は、推古天皇七年四月二七日の項、「地動舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神」とある。西暦では五九九年五月二八日にあたる。舎屋(住居)がことごとく破壊したので、国中に命じ、地震の神を祭らせたという。神のなしたる業と考えていたようだが、どんな神かはわからない。

 天武天皇の時代には、古代天皇制を確立、中央集権国家を築きあげたことで、地方に地震があったときも、朝廷への報告が敏速におこなわれたようだ。

 天武天皇七年十二月(西暦では六七九年一月)の項の注釈文を読もう。「十二月の二七日に臘子鳥(あとり)が天をおおって、西南から東北へ向かって飛んだ。この月に筑紫国(つくしのくに)に大地震があった。地面が広さ二丈(約六メートル)、長さ三千丈(約十キロメートル)あまりにわたって裂け、どの村でも民家が多く倒壊した。この時、岡の上の一軒の民家は、ちょうど地震のあった夕に、岡が崩れて他所に動いた。しかし家はまったく無事で壊れなかった。その家のものは岡が崩れて家が動いたことに気付かなかった。しかし夜が明けてからこれを知り、とても驚いた」という生々しさだ。

 最近の調査研究で久留米市周辺が、震源であった可能性の高いことがわかった。筑紫平野一帯で地割れ、墳砂(液状化現象)の痕跡が遺跡から出たからだ。この下を走っている水縄(みのう)断層の活動であったことも確定され、M七クラスの爪跡による大被害が生じ、記録されるにいたった。

 地震の前兆として、臘子鳥が天をおおったという。他の記述でも朱雀(あかすずめ)や三本足の雀があらわれたとあり、動物の異常行動にも人々はおののいている。

 時代は移り、一六七八年刊『江戸三吟』のなかに、松尾芭蕉と弟子の連句に鯰が登場する。芭蕉は、まだ桃青の号を使っていた。

  大地震つづいて龍やのぼるらん  似春

  長十丈の鯰なりけり           桃青

 地震を昇天する龍にたとえた似春に対し、桃青(芭蕉)は「龍は鯰だよ」とからかっている。鯰が地震予知のシンボルとして、ひろまるなかでの句だ。

 寒川旭著『地震 なまずの活動史』には、幕末期になって庶民のあいだに一気に広まったことが二例、紹介されてある。

 一八五五年当時の、江戸地震の風刺・諧謔の瓦版の絵だ。復旧工事で建築業界が潤ったことで、鯰にお札(ふだ)をかいてもらい、ありがたがる職人たちの鯰絵がある。もう一つ、地盤の弱い地域の遊郭の建物被害などから、遊女たちが鯰をこらしめている鯰絵もある。

 悲惨な災害にあっても、身分制度などで閉塞された世間を、一瞬に帳消しにするような意味合いをふくむ絵だ。悲惨な現実とは裏腹に、鯰絵には自由な明るさがただよう。私はそんな民衆の開きなおった強さに、胸がしめつけられる思いがした。

新たしき都きづくといそしめるこの民の上に幸あらせたまへ       佐佐木信綱

長田区をテレビに見つつ三日ぶりに口が楽しむパンのふわふわ    中野昭子

 どちらも被災者だ。一首目、一九二三年の関東大震災のとき、完成目前だった『校本万葉集』を火災によって失った。だが、祈りの心で大きく詠おうとする。二首目、一九九五年の阪神・淡路大震災のとき、作者以上に被害が多かった長田区に心を寄せている。

 思えば太古から、地球は常に大地を揺さぶってきた。そこに人間が住み、社会が営まれたとき、脅威に立ちはだかる。このたび東北大震災(二〇一一・三・十一)においては、放射能漏れまでひきおこした。人間の持つ知の深い闇のなかに、みずからを引きずり込んでしまった。真の復興と、亡くなられた方々へのご冥福を慎んでお祈り申しあげたい。

 ながらみ書房『短歌往来』2011年7月号より

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