遊行の民・人形まわし
戦前の節分の話もそのひとつ。普段は人通りの少ない浜辺の辻から、にぎやかな声が近づいて、朝から落ち着かなかったという。戸口を開けるとすぐ、ぽぽんぽーんとリズミカルに鼓が打たれ、恵比寿さまの人形(木偶(でく))が家に飛び込んできた。祝い芸の箱まわしがやってきたのである。
「やっとこどっこで釣りあげた、この鯛こそはと元の御殿へお帰りあれば、港港は宝の入舟、おおくその後は世の中繁盛、この家も繁盛……」と賑やかに歌い、人形を滑稽にあやつった。お礼に一升入りの米袋を受け取ると、「まずはめでたや~」と次の家へと立ち去った。
人形を数体、二つの箱に入れ天秤棒で担いでいた。箱まわしともいい、二、三人で一組だ。漁師町では恵比寿まわしが、大漁満足を予祝してくれた。農家では三番叟まわしが、稲の豊穣を約束してくれた。どこからともなく来て風のように去っていく、遊行の芸人たちである。祖父は恵比寿さまの顔は覚えていたが、人形を操る人のことはほとんど覚えていなかった。
人形遣ひたりしむかしの黒衣(くろこ)なほいかに過ぎしもわれにふさはし 小中英之
花形の人形より、後で操る黒衣のような生き方が、自分にはむしろふさわしいという。 し のくりかえしのリズムから黒衣の静かな覚悟がただよう。亡祖父の昔語りとともに、私の胸に沁みてくる歌である。
人形まわしの手がかりを求め、兵庫県西宮市の西宮神社へ行った。全国の恵比寿神社の総本社だ。立て札には傀儡(くぐつ)師発祥の地と記している。境内の本殿西側には末社「百(ひゃく)太夫(だゆう)神社」があり、傀儡師と呼ばれた人形まわしたちが信仰した。百太夫は道祖神と思われる。神社の北側にあった産所町(元・散所(さんしょ)村)から移されたもので、産所町にはそんな人たちが住んでいたのである。今は碑が立つのみ。室町時代以降にはここから全国をまわり、江戸時代には淡路島に移ったという。亡祖父の楽しみの恵比寿まわしは、どうやら淡路島からの出稼ぎだったようだ。
淡路島に移ってから箱まわしや人形座を生みだし、また大阪に伝わり、三味線音楽や浄瑠璃と結びついて大阪文楽を生みだした。大阪湾から淡路島まではひとまたぎの地形のなかで、日本芸能の大飛躍がなされていた。
神社側には神崎川がある。江口・神崎・蟹島(かしま)は京都よりの川べりにあり、中世のころには舟遊女が多くいた。今様のうまさで売った傀儡女たちもいた。
遊女(あそび)の好むもの 雑芸(ざふげい)・鼓・小端舟(こはしふね)、簦(おほがさ)かざし・艫(とも)とり女(め) 男の愛祈る百太夫
『梁塵秘抄』のなかから。雑芸はここでは今様のことで、鼓を伴奏とした。舟に大傘をかざし、艫とり女が舟を漕ぎ、百太夫に商売を祈っている。
この時代、農耕民支配体制がしかれていたが、国の保護もない代わりに納税義務もなかった人たちであった。
折口信夫は傀儡師の発祥を乞食者(ほがいびと)に求め、安曇・海部の出身である海語部(あまかたりべ)が、宮廷に寿詞(よごと)を奏したときの呪術的芸能から派生したものとした。それを瀧川政次郎は否定し、傀儡戯・傀儡師族の外来説をとなえた。
吉井良隆編『えびす信仰辞典』の「人形操りと百太夫信仰」のページを開くと、傀儡師のみなもとは中央アジアにあると、わかりやすく説かれている。中央アジアには雑芸を特技とする部族がおり、やがて東西に分かれ移動したというものだ。
東へのルートをたどったものは、インドから中国へ入り、中国なりの発展があった。中国でいう百技(ひゃくぎ)三楽(さんがく)がこれにあたる。三楽は日本では猿楽のことで、神々をなぐさめるための舞楽である。百技とは雑芸をいう。これらは中国から直接、あるいは朝鮮を経て日本に入った。朝鮮では傀儡師のことを白丁という。このように傀儡とは外来の芸能ではあるが、日本に定着することとなった。百技のなかでは、とくに人形操りが中心になり普及した。
西へのルートをたどったものは、古代から広くヨーロッパ一帯で活動した吟遊詩人、ジプシーたちであった。先祖の話や戦記ものなどを楽器の弾き語りで人々に伝え、口承芸能の役を繋いできた。古代ギリシャのイーリアス、オデュッセイアの物語も吟遊詩人によって歌われていたものが、後の文字の発明により物語として、記録されることとなった。
日本においても奈良時代以前から語部(かたりべ)という職業があり、それが西欧の吟遊詩人にあたるのだ。神話や先祖の物語などを記憶し、父子相伝に代々の家業としてきた。太(おおの)安萬侶(やすまろ)が神話や古代の伝承を記録し編纂した『古事記』は、語部一族であった稗田(ひえだの)阿礼(あれ)の記憶を聴集して記録したものである。
『古事記』では伊邪(いざ)那岐(なぎ)・伊邪(いざ)那美(なみ)の二神が国土創生の章に淤能(おの)碁呂島(ごろしま)に天降り、天の御柱を立て八尋(やひろ)殿(どの)を建て、天の御柱を行きめぐり逢うとき、女神がまず「あなにやし、えをとめを」ととなえた。そして水蛭子(ひるこ)が生まれたので、葦船に入れて流しやった。次に淡島を生むが、子の数には入れなかったとある。
この水蛭子が西宮神社の主祭神。不具者として葦船に入れて流された。だが、奈良時代には水蛭子と夷(えびす)(恵比寿)は同じとする記述はない。水蛭子が夷(えびす)として祀られていることが文献上に登場するのが、鎌倉時代の『神皇(じんのう)正統録(しょうとうろく)』『源平盛衰記』なのである。
葦船に流された神は、遊行の芸人たちを受け入れた。また、瀬戸内の漁師の家では、足萎えや知的障害の子が生まれると、恵比寿子と呼び、家の宝としてとても大事にした。
大きなふところと温もりが、恵比寿神の本質だ。
ながらみ書房『短歌往来』 2011年8月号より
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