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ゆりまつり

樹々の緑がいちだんと暗く見えてきた。熊蝉や蜩(ひぐらし)がいっしょに鳴いている。

今年も初夏から山野をまわって、おみなえし、もじずり草、山萩、蛍ぶくろなどにであった。栽培の薔薇なども見ごたえがあるが、山河の風景の一部として咲くこれら花にはかなわないだろう。ときには何かにじっと耐えている風情があり、近づかないではいられなくなる。なかでも笹ゆりは、その筆頭といえるのだ。

山びとから「笹ゆりの蕾がふくらんだよ」と声がかかれば、私は少女のように心をはずませて、山野を駈けまわる。白から淡紅まで少しずつ色を変えた群生の斜面にたたずむとき、太陽のかがやくしたに蕾をほどくもの、煙雨の藪に小さな灯のように妖しくひそむもの、風中の刃のように鋭く揺れるものなど、その表情の変化に息をのむ。うつむきかげんの花のひとつひとつから清涼な品のいい香りが放たれ、いいようのないよろこびに充たされる。

こんなにも笹ゆりが好きなのは、幼少の思い出にさかのぼる。山道で擦りむいた足傷の血を白い花びらで拭いてくれた、近所のお姉さんがありありと蘇えってくるからだ。 笹ゆりに続いて姥ゆり、鬼ゆり、鹿の子ゆりなど、色も模様も形さえも一段と派手になる。だが私の夢のなかにまで、ざわざわ揺れてくれるのは笹ゆりしかない。

筑波嶺のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹そ昼も愛しけ

                   大舎(おほと)人部(ねりべ)千(のち)文(ふみ)

万葉集のなかから。防人として出発した男が、あとに残した妻を恋しく思う歌。昼は筑波山の百合のように、夜の床のいとおしいお前は、昼であってもかわいいよと、感情をたかぶらせる。「さ」は神聖なものにつくことから、ゆりも神聖視されていたようだ。 『古事記』中巻の神武天皇の章には、この花のもとで初夜をむかえた歌がある。

葦原のしけしき小屋(をや)に菅畳(すがたたみ)いやさや敷きて我が二人寝し

葦原のなかの荒れたきたない小屋に菅の蓆(むしろ)を清らかにすがすがしく敷きつめて、私たちは二人で寝たことだとの歌意だ。「寝し」に実感がこめられる。

七人の乙女の先頭に立って野遊びをしていたとき、天皇と出会い皇后に迎えられた伊須気(いすけ)余(よ)理比(りひ)売(め)(三輪の大物主の娘)が記される。神武天皇が伊須気余理比売を、三輪山の麓にある狭井川のほとりの家に妻問いした。その後に、宮中に参内した比売に天皇が詠った。

「その河を佐韋河(さゐがは)といふわけは、その河の辺(へ)に山ゆり草多(さは)にありき。かれ、その山ゆり草の名を取りて、佐韋河と号(なづ)けき。山ゆり草のもとの名は佐韋と云ひき。」と注記がある。

櫻井満著『万葉の花』によれば、万葉のゆりは十首の歌に詠みこまれ、すでに「百合」の文字が当てられている。ゆりは山ゆりが代表のようにみられるが、山ゆりは本州の北中部に多く、関西では笹ゆりが多い。万葉のゆりは、笹形で淡紅色の花をひらく笹ゆりが中心だったのかも知れないと推察する。山ゆりは古名を「さゐ」といったことから、狭井神社は大三輪の神の荒御魂をまつるものであって、いわば疫神として、その根をささげる古義があったと思われることを述べる。『日本書紀』にも同じ場面があり、日本のたいせつな行事となっている。

毎年六月十七日、奈良市本子守町の率川(いさがわ)神社(大神神社の摂社)で三枝(さいくさ)祭(まつり)(別名ゆりまつり)が行われる。三枝(さいぐさ)とはサキクサの音便で、笹ゆりあるいは山ゆりと同じことだ。笹ゆりの成長した根からは、一本の茎に三つの枝がつくことも付記したい。

中殿は媛(ひめ)蹈鞴(たたら)五十鈴(いすず)媛(ひめ)命(のみこと)(伊須気余理比売のこと)、右殿は父の狭井大神(大物主)、左殿は母の玉櫛姫が祀られる。娘を真ん中に両親がおわすことから、子守加護の神として親しまれる。お供えの酒樽、黒酒をいれた罇(そん)と白酒をいれた缶(ほとぎ)とを、三輪山に咲いた笹ゆりで飾ると、笛や鞨鼓が鳴りひびき、手に手に鈴をもった巫女たちが踊りはじめる。大神神社の鎮花祭とともに、疫病を鎮めるための、まことに優美な神事である。

かつては、三輪山に咲いたものを採集していたが、今は麓で七年かけて育てられたものが使われる。これらは比売が三輪山の麓の、狭井川のほとりにいた故事によるものだ。

山百合(さゐぐさ)の祭の壺はわが立てて窯変(えうへん)ちかきあかときのいろ  山中智恵子

祭神には和鉄製錬をあらわす、蹈鞴の字が付いている。その火に縁あるいろの壺と水に縁ある山百合とが、たがいに緊張感を与えあっている。わが(・・)立てて(・・・)には、作者と媛神とがだぶり、下句の窯変(・・)ちかき(・・・)がただならぬ空気の密度をかもすのだ。

去年、私は宵宮祭に参加した。例祭を翌日に控えた六月十六日、三輪山から率川神社に奉納される「ささゆり奉献神事」である。

JR万葉まほろば線に運ばれた花を、奈良駅から花車にのせ、三条通から率川神社のある本子守町まで、沿道の人々に見守られながら斎行した。おごそかで華やいだ行列に、人も車もおのずから脇に除けるほどだ。

三島由紀夫の小説『奔馬』に登場するような美少年はいなかったが、三島が感じた気配のようなものは、私にもあった。目に見えない大きな腕に包まれているような、懐かしい温もりである。歩を進めるごとに身体から澱のようなものが噴き出し、いつしらに頭がスーッと軽くなった。これを浄化とでもいうのだろうか。

ふっとわれにかえると、かんかん照りのなか、すでに花車が鳥居をくぐっていた。

ながらみ書房『短歌往来』2011年10月号より

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