木炭
昔から炭焼き職人には、「鼻の悪いのと、せっかちは駄目」といわれる。窯のなかの原木の焼け具合は、煙の微妙な変化を嗅ぎわけて判断しなければならない。そして根気強く時間を充分にかけ、じっくり焼きこまなければならないからだ。
玉井又次さんを訪ねたのは、去年の秋。和歌山県の日置川近くの安居(あご)に、「備長炭研究所」はあった。玉井さんは一九二六年生まれの八十四歳だが、十歳は若く見える。現場のたたきあげ職人といった風貌で、焼きあがった炭の前に立っておられた。
「長いこと火ばっかり見てたんで、目が見えんようになったんや」 そういいながら、自在に動いておられた。無駄のないきびきびした口調で話されることのひとつひとつには、私たち現代人がすでに失った野性的カンと度胸が冴えていた。 略歴をうかがった。炭焼き職人の多く住んでいた和歌山の山間の集落に生まれ、九歳で両親が亡くなり、宮崎のおじさんのところに預けられた。その期間こそ炭を焼かなかったが、また十三歳で故郷に戻り、食い扶持(ぶち)を稼ぐために、しかたなく炭焼きをした。そのころは炭焼きへの世間の差別が強く、物資も不足していた時代でもあり、空腹で気も荒かった。まもなくそこから逃げ出し、大阪の海軍に入った。同年代の青年たちが集まる海員善養成所は、訓練さえしていればご飯が食べられる、天国のようなところだったという。
海防艦に乗り南洋をめぐっていたところ、戦局は悪化、日本は敗戦した。十九歳のときだった。しかし玉井さんはそれからも約半年間、敗戦を知らずにフィリビンのルソン島のジャングルに潜むことになった。はじめは三十人ほどいた戦友が、マラリアやテング熱などでばたばた倒れた。生還できたのはほんの数人で、それも炭のおかげだったという。まるでサバイバル・レースである。
敵機に爆撃され、樹木がつぎつぎ炭になった。玉井さんは炭を集め、大蟻を焼いたり、笥を焼いたりして飢えをしのいだ。なめくじまで焼いたという。炭が胃腸薬や風邪薬がわりにもなり、健康が維持できた。今度は自らも木を伐リ、煙がでないように伏せ焼きにして炭を作った。捕虜になったが、やがて二十一歳で復員。終戦後は炭焼きで生きていこうと腰を据え、ずっと備長炭を焼いてきた。弟子も大勢育て、今はご子息の満さんが代表者となっている。「備長炭を焼くほうが、ずっときついな」 以前、尖閣列島で石油掘リをしていた青年のひとことだ。そんな弟子のふとした弱音からも、仕事の様子が察せられる。 ここは人里をわずか離れた、風の少ない平地だ。冬になれば猪や熊までが、餌をもとめて出てくるだろう。 『新古今和歌集』から。
日数ふる雪げにまさる炭竃のけぶりもさびしおほはらの里 式子内親王
幾日も雪が降っているなか、雪にまさって炭竃からたなびく煙がある。人の気配のない大原の里を一層さびしく見せる無彩色の冬風景だ。だが、炭竃の内側では炭が白熱に燃えており、心に余韻がいつまでも続く。「炭に白と黒があるんや、いうたろか?」 お願いすると、丁寧に教えてくれた。それは炭竃を使って焼く、木炭の消火法から分けられる。炭化・精煉(ねらし)がすべておわり最後に炭の温度をさげるとき、竃口と煙突をすべて閉じ、そのまま置いておく自然冷却が黒炭だ。それに対し、最後のところで竃口を全開して掻き出した炭に灰をかぶせ、急速冷却するのが白炭だ。炭の表面に灰がかぶり、白っぽく見えるのでそう呼ぶという。
黒炭(くろずみ)は軟らかく火付きが良い。家庭用の火鉢や台所用の、普段使いの雑木の炭として使用されてきた。白(しろ)炭(ずみ)は堅くて火持ちが良く、たたくと金属音をたてる。そんな白炭を備長炭ともいう。通常、姥目樫をつかう。
備長炭の起源は南紀州、田辺市中を流れる合津川の上流、秋津川の周辺が有名だ。その由来は、江戸時代の紀州の炭問屋「備中長左衛門」を起源とする。たまたま窯の中の燃えさしを掻き出して灰で覆っておいたところ、良質の木炭ができたという伝承がある。ほかにも数説あるものの、どれも明確ではなさそうだ。紀州産のほか、秋田偏長、豊後備長、土佐備長、日向備長など、白炭の代名詞のようになっている。
わが国では石炭が使われはじめた頃から、樹木で作る昔ながらの炭を、木炭と呼ぶようになった。その木炭の歴史はかなり古い。
古代、古墳のなかに敷きつめた。砂鉄から玉鏑をとりだすとき、玉鋼から刃物を作るとき、奈良の大仏建立のおりに金メッキを施すときにも、木炭を多量に燃焼させてきた。そして、茶の湯にも使われるなど、わが国の文化の伝統を力強くささえてきたのである。『日本書紀』巻三・神武天皇の章に、「墨坂に焃(おこし)炭(ずみ)を置く」とある。戦の奇策に炭を使用した記述がある。天皇は吉野から菟(う)田(だ)(宇陀)の高倉山に登って、敵状視察されたとき、国見山には八十(やそ)集(たけ)帥(る)、女坂(めさか)には女子軍(めいくさ)、男坂(おさか)には男軍(おいくさ)が陣地をかまえていた。大和平野への通路である墨坂には、交通妨害のために炭を赤々と熾していた。激しい防戦に天皇軍は苦戦、菟田川を堰き止め消火し、やっと進軍できたのである。
七輪のなかで炭が真赤になり、ぴんぴん爆ぜる音は懐かしい。早春の野の香りとともに幸せな気持ちになる歌をあげたい。
味噌に韲(あ)ふる蕗(ふき)の薹(たう)をば網かけて火に焼きゐれば心は和(な)ぎぬ 前川佐美雄
山に生(お)ふる木々はうつくしみな親し焼きて作れるこの炭もまた 若山牧水『黒松』
今年も玉井さんを訪ねようとした矢先、台風十二号が暴れて、道路が寸断された。どうかご無事でありますよう・・・。
ながらみ書房『短歌往来』2011年11月号より
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