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水銀

 和歌山県の高野山麓、標高約四百五十メートルのところに天野盆地がある。

 紀ノ川を南へ渡り、柿の畑をぬけ、星川沿いに上り、星山を越えればそこに行ける。古代、山中に巨大隕石が落ちたその跡に出来た里ではないかと思うほど、ぽっかりひらかれている。私がはじめて訪れたのは八年前の初夏。眠ったような静けさのなか、沢や水田では蛙が跳ね、遠くで番犬が鳴いていた。ところどころ、むき出しの山肌が赤かった。

 『紀伊続風土記』には「幽寂の勝壌あり。天野といふ。四周青(せい)巒(らん)連繞(れんにょう)し、その中に平坦あり。二条の渓流縈回(えいかい)して、志賀(しが)に出でて潺湲(せんかん)たり」と記述されるほど、古くから水の豊かな奥まった景勝地だ。高野山へつながった旧道がある。かつて信者たちがこの地を訪れ、とどまり、山上をめざすなどした。そんな穏やかな風景の奥に、丹生都比売(にうつひめ)神社を見たときはおのずと「おおっ!」と声があがった。赤土の上に建つ朱塗りの神殿が、大杉の間から見え隠れしていたからだ。

 丹生神社は全国に、百三十ヶ所もあるという。その半分以上が和歌山県下に集中している。ここはその総元締めというべき大社。丹生都比売は高野の守り神でもある。

 丹は朱砂や辰砂と同じこと。その丹には不思議な性質がある。煮つめると水銀になり、水銀をまた煮ると朱砂に還(かえ)るのだ。還るという特性から、不老不死の霊薬として珍重された。化粧品や白粉に用いたほか、古墳や石棺などに塗ったり詰めたりした。防腐剤のほか魔よけの呪術としても効果があった。とりわけ水銀は各種の金属と混和し、アマルガムという合金をつくるため鍍金(メッキ)に用いられた。聖武天皇発願の大仏が多量の水銀で、金鍍金されたことはよく知られる。近年は使用が控えられる金属だが、西洋の錬金術に対し、東洋では錬丹術によって科学が発達してきた。 『万葉集』にも丹・真赤土・真朱・真金などが詠まれ、大和朝廷をささえた鉱物資源を歌に知ることができる。そのなかの一首。

  真金(まかね)吹く丹生の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみぞ吾が恋ふらくは  

                                    作者未詳・巻十四 

 真金(・・)吹く(・・)はたたら製鉄を意味し、ここでは丹生の枕言葉になっている。丹生の赤土のように色にだしていないだけなのです。私の恋はと、まっすぐに詠う。

 真(・)朱(・)の(・)色(・)とはどんな色だろう。昨日から今日へ夜が明け、太陽が出て朝がくる。その明けるから、赤(・)の言葉が出来たという説がある。古代の日本人の使った赤色は二種類あった。一つは水銀系の赤(硫化水銀)で、もう一つは鉄系の赤(酸化第二鉄)である。鉄系の赤は俗にベンガラといい、やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系の赤をそほ(・・)と呼んで、赭(・)の漢字をあてた。これに対し、丹は正真正銘のそ(・)ほ(・)だという意味で、真赭(・・)の漢字をあてた。この歌は真(・)朱(・)となっているが真赭(・・)と同じで、オールド・ローズ系の色をしている。

 『播磨風土記』には神功皇后が新羅へ発つとき、赤土を船や鎧などに塗ることを爾保都(にほつ)比売(ひめ)から教えられ、戦に勝ったと記述される。 松田壽男は『古代の朱』のなかで、丹生都比売と爾保都比売を同神と説いている。その一部分を要約したい。

 水銀にはその朱砂の産出をつかさどる神がいた。金山比売(かなやまひめ)である。もともとは銅の女神であった。それに対して、朱砂を支配する神がいた。丹生都比売である。あるいは爾保都比売ともいった。ニウは正しく綴ればニフである。万葉仮名で書けば尓布、仁布、丹布となる。ニフとニホとは、ちょうど赤生と赤穂との関係に似ている。赤土が生まれるのと、赤土が穂のように吹きだすのと、言葉が違うだけで現象そのものは同じなのだ。ニウズ姫とニホツ姫は同一神と認めてよいと、断定するものである。

 私は天野に住む、歴史研究家の谷口正信さんを訪ねた。谷口さんは天野の歴史について独自に研究し、ご子息の千明さんとともに、広く伝達しようと活動されていた。初対面の私にさえ、腰をすえて教えてくれた。

 天平時代の和銅十年(七十)の、『丹生大明神告門(のりと)』がある。『丹生大明神告門』は日本最古の告門といわれる。持統天皇時代の丹生真人安(まびとやす)麿(まろ)により、書かれたと伝えられる。

 まず庵(あん)田島(たじま)の石口(いわくち)の滝に神として名のみあらわした丹生大明神は、その後、紀州・大和の二十二ヶ所を巡幸し、国見をし、金や水銀の場所を示す忌杖(いみづえ)を刺し、のちに御田を作り、豊作祝いなどを行ないながら、最後は現在地の天野原に鎮座した経緯がしめされている。 「祝詞」でなく「告門」としたのは、一族の自覚をうながす意味もあったのだろうと、谷口さんは声を張った。

 丹生一族ははじめ大和の吉野を中心とした山岳地帯に住み、鉱山を正業とし、丹が採れなくなってから稲作に転換した足跡だ。鉱脈のあるところ丹生あり。これは古代の水銀の女神が、やがて農耕の女神に変わるまでの記録なのだ。とすれば、鉱脈をもとめて流浪してきた丹生氏の祖先を、天野に据え祀ったと考えられる。 

 空海はそこに、高野山という大聖地を開いた。水銀という財源を確保し、壮大な事業を起こしたのである。空海と水銀を追いかけると、ミイラ作りや吉野の井光にまで踏み込みたくなる。稿をあらためようと思う。

 今夏、谷口正信さんは九十歳を前にご逝去された。もっとお訪ねしておくべきだった。 赤土は古代からの、おおらかな時間と空間をかもしてくれる。幼子をそんな豊かなめぐみのなかで表現した歌がある。

  歩かせてあそび来しかばわがそでに赤土こぼれ子は眠りたり     片山貞美

                          ながらみ書房『短歌往来』2011年12月号より

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