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水銀・伊勢国

 三重県の真ん中ほどの山間に、車を走らせた。ここは多気郡勢和村大字丹生。

 丹生は名のとおり古代から、朱砂・辰砂・丹砂という赤い鉱石の採掘が行なわれていたところだ。そしてこれらの鉱石を加熱し、水銀を採集していたところでもある。いまもその鉱山や製錬装置の跡が保存されている。

 車道の際に車を置き、山中を歩くこと約十五分。赤土の見える山の壁面には、古代と昭和の二つの水銀採抗口が開かれていた。看板には古代の抗道は鉱脈沿いに地中ふかく伸びて、昭和の抗道は水平に伸びていると記す。狸(たぬき)掘りという、人体がやっと通れるほどに掘られた穴が、山中にくまなくはりめぐらされているのだ。だが入り口は柵で仕切られ、抗内は真っ暗がり。やむなく、奥に向けてカメラのシャッターを押すと、抗道は体内の腸壁のように狭く写った。山には放置された抗口があるが、ムカデが出たので引きあげた。

 かつてこの一帯は火の谷と呼ばれた。鉱物や赤土で真っ赤だったという。抗夫たちは抗道を、這うように進んだのだ。閉所恐怖症の私は、ここに立つだけでも震えあがる。赤の鉱石が松明の火に揺らめき、汗のような水銀の滲みがびかびか光る抗道を想像するとき、人間が古代から血脈のなかに持っていた、赤(・)への強い畏怖心が蘇ってくる。

 山道を少し戻った。昭和五十五年から使われていた製錬装置が、修復保存されてある。鉱石を窯に入れ水銀を蒸発させたのち、外に伸びた鋼管の先から流れ出た液体を、回収する仕組みになったものだ。水銀に夢をかけた人たちの残骸といえよう。

 農文協編『人づくり風土記』に、その歴史が記されてある。八世紀はじめごろに鉱脈が発見されると、この山を丹生山、近辺を丹生郷と呼ぶようになった。文献にあらわれるのは和銅五年(七一二)で、『続日本紀』には伊勢(・・)水銀(・・)として登場する。伊勢国(三重県)で水銀が採れるところといえばここ、丹生山のみ。寿永年間(一一八二~八五)、東大寺大仏の再鋳造に使われていたことが、『東大寺造立供養記』にみられる。このころには産出量も多く、国内だけでなく、朝鮮や中国にも輸出されていた。水銀座が成立し京の都からの業者の往来もはげしくなったが、室町時代末には掘りつくされた。昭和になってから新技術で掘られたが、公害をおそれほどなく中止した。

 水銀は鍍金(メッキ)のほか、絵具の顔料や薬品にも使われた。射(いざ)和(わ)町(松坂市)では室町時代、水軽粉のハラヤや伊勢白粉(おしろい)が製造された。ハラヤは水銀、塩、にがりなどを混ぜて加熱して得た昇華物で、高級化粧品のほか利尿剤、下剤、梅毒の特効薬でもあった。

 わが家の古い化粧台には、黒龍クリームや傷薬の赤チンが残っていた。水銀入りと聞いていたが、いつの間にかなくなった。 東大寺の大仏を造るため、人々にかなり負担を強いていたと察せられる万葉歌がある。

仏造る真(ま)朱(そほ)足らずは水たまる池田の朝(あ)臣(そ)が鼻の上(へ)を掘れ  大神朝臣奥守

 仏像を造るのに必要な真朱(硫化水銀)が足りないのなら、水のたまる池の池田朝臣の鼻の上を掘るがよいよという戯れ歌だ。池田さんは酒飲みで、鼻がよほど赤かったとみえる。宴席での歌だろう。

 丹生山の麓にある神宮寺へ行った。七七四年、光仁天皇の勅願により、空海の師の勤(ごん)操(そう)大徳が開創したと伝える。八一〇年、唐から帰朝した空海がこの地に寄ったとき、師の開創を知り、伽藍建立を発願したことで知られる。お堂の後側にまわると、やはり丹売都比売が祀られてあった。

 松田壽男著『古代の朱』には、煉丹術をわが国に持ち込んだのは空海だと述べる。中国の道士が水銀の性能を巧みに応用した、不老長寿の丹薬の製法だ。そして、水銀を屍体の防腐に利用した、ミイラの製法もそうであった。行者のミイラ化した遺体を即身仏として崇めるのは、古くからの流行だった。日本で多く見られるのは江戸時代以降の行者のもので、それより古い鎌倉時代のものがある。

 僧侶が土中の穴などに入り、瞑想状態のまま絶命、ミイラ化したものを即身仏という。修行のなかでも最も過酷なものだ。その秘法というのは、五穀断ちをして身体から脂肪を抜き、つづいて十穀断ちをして、水銀入り野菜などから体内に水銀を蓄積するという、木(もく)食(じき)行(ぎょう)である。水銀の毒と薬を充分知った上での行でなければならない。 仏教とミイラを暗示させる歌がある。

            

印度土産の絵更紗二丈われの身に巻けばからくれなゐの木乃伊(ミイラ)     塚本邦雄

               

 印度更紗にくるむわが身体は痩せて、永久死体の木乃伊のようだという。二丈は身長の倍の長さ、身体がすっぽりおさまる分量だ。古代色のからくれなゐが目裏にひろがる。

 『記』『紀』の神武天皇の英雄譚に、古代の吉野地域のようすが描かれている。ことに『古事記』中巻では、光のある井戸から吉野首(おびと)の祖があらわれ、次に尾の生えた国(く)巣(ず)の祖に出あっている。光のある井戸、井光は水銀採掘抗の形容で、自然水銀が抗壁や底で光ることから付けられた地名だという。尾の生えた人とは、腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採鉱の人をさすという。見逃しそうな地形にあったが、カーナビでたどり着けた。

 水銀鉱床は大和、四国、九州に分布する。今回私は、近畿の一部分を巡りつないでいたにすぎない。それでも表の都とは異なる、裏の王国の確かな存在を知ることができた。そして鉱脈から鉱脈へ、流浪したであろう人々も見えてきた。もうしばらくこのまま、山中をめぐりたい。これより裏の王国に秋が深まり、山は黄葉にかがやく。

                           ながらみ書房『短歌往来』2012年1月号より

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