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刀鍛冶

 日本独自の和式製鋼法であるたたら(・・・)吹き(・・)を奥出雲で見たのは、二年前の冬だった。

 木原村下(むらげ)(たたら責任者)の指揮のもと、真砂(まさ)土(ど)と粘土で出来た舟形の炉に三昼夜、火を消さずに砂鉄と木炭を交互に入れ、出てきた鉧(けら)(粗鋼)から不純物などを除き、日本刀の原材料になる玉鋼(たまはがね)を取りだすものである。三昼夜、火を消さないということは村下はその間、不眠不休の労働をするということだ。高温の火を見つめながら黙々と手順をこなす姿は、何ものも寄せない威厳に充ちていた。

 その後、刀剣を鑑賞する機会を得た。刀剣は玉鋼で造る。今でこそ美術工芸品だが、本来は武器。折れず、曲がらず、よく切れることが必須であった。門外漢の私にさえ、冷たい光と鋭いフォルムのなかに吸いこまれそうな怖さが感じられた。だがそれだけではない繊細な格調も合わせ持っている。波(は)文(もん)の乱反射を見つめると、真っ赤な玉鋼とそれを打つ刀鍛冶の大鎚の音が、澄んだ空気のなかにガシーン、ガシーンとひびいてきた。

 世界のトップという日本の製鉄技術は、もとをたどれば鉄の可能性を追い続けた古代の鍛冶職人へとつながる。玉鋼のかたまりを火と水で一振りの日本刀へと変化させてきた、匠の一鉄とはどのようなものだろう。 「僕はプロやから自分で納得しててもあかん。宮入昭平と比べてどうや、隅谷正峯と比べてどうや。現代刀だけやない。正宗(・・)や一文字(・・・)と勝負せなあかん」

 そう厳しく自らに問う刀鍛冶がいる。師に迫り、過去の名刀を越えようするのは、東吉野の高見山西麓に住む河内國平(かわちくにひら)さん。河内さんは制作のほか、七支刀・稲荷山鉄剣・藤ノ木古墳出土太刀・剣など復元させている。ことに二〇一〇年に国宝の七支刀について従来の定説をくつがえし、鍛造(たんぞう)ではなく鋳造(ちゅうぞう)により製作されていたと提言したことで、よく知られる人物だ。

 鍛刀場を訪ねたのは四月中旬。南では若葉が目立ちはじめた桜も、ここでは見頃の満開だった。冬は雪で埋まってしまう山奥だが、綺麗な水や空気はたっぷりある。こんな静けさのなかで独自の技術が継承、復元されてきたのかと思うと身が引き締まる。

 鍛刀場のなかは外光が遮断され、洞穴のように真っ暗だった。火の色や火花の様子で、微妙な温度をはかるためである。火(ほ)床(ど)には炭から紫色の火がいきおい増して噴き出していた。河内さんのほかには弟子がひとり、手元の灯りで松炭を切っていた。炭は均一に切ってこそ、火力が安定する。工程によってその大小を変えなければならない。

 鋼が真っ赤になると、鍛錬がはじまる。一三〇〇度に熱せられた鋼を、河内さんが火床から取りだすと、弟子が大鎚で何度も叩くのだ。「今や!」「ゆっくり行こ」「早よ、せんか」など、裂帛の気合をあげながら弟子との呼吸を促してゆく。そんな真っ暗な鍛刀場は、あたかも金屋子神(鍛冶の神)の子宮に見えた。火花や鎚音はまさに陣痛といえる。全員が呼吸をあわせて、刀という一つの生命を産みだす場に立ちあうことは、なんともおごそかな心持ちがした。

 叩かれては純度があがり、折り返されては何層もの強くたおやかな鋼に変化する。その工程のなかに、造りこみ(甲伏せ)がある。鍛錬をしているなかで、鋼は皮鉄(硬)と心鉄(軟)にわかれる。その反対の性質を共存させ、刀の形に叩きのばす。切れ味や折れにくさにかかわるところだ。鍛えられた鋼だけが、刀剣に生まれかわることができる。

 河内さんは弟子には、ひたすら真摯に仕事に打ち込み、日々の中でも人間としての振る舞いを律せよという。それは、自らの精神を鍛錬せよということだ。邪悪なものを破り、正義をあらわす、まさに日本刀の秘められた力そのものとなるからだ。

  石(いそ)の上(かみ) ふるや男(をとこ)の 太刀もがな 組(くみ)の緒(を)垂(し)でて 宮路(みやぢ)通(かよ)はむ

  『神楽歌』の「剣(つるぎ)」から。「(石の上)ふ(・)るや(・・)男(・)が持っていた太刀が欲しいよなあ。組紐の緒をさげ、宮路を通おう、宮路を通おう」と、伊達な男の風俗を歌う。平城京を背景にあざやかな印象だ。

 ふるや男とは伝説の勇者、古屋男(・・・)のことと考えられる。『万葉集』巻十六・三八三三の境(さかい)部(べの)王(おうきみ)の歌に、「虎に乗り古屋(ふるや)を越えて青(あを)淵(ぶち)に鮫(み)龍(づち)捕(と)り来(こ)む剣(つるぎ)大刀(たち)もが」がある。鮫龍は水中に棲む想像上の動物だ。人に害を与える鮫龍を捕れる剣大刀があったらなあと歌う。

 石の上神社は『記』『紀』、さらに主として物部氏の伝承を記す『先代旧事本紀』にあるように、第十代崇神天皇七年に現在地、奈良県天理市布留町に鎮座されたわが国最古の神社のひとつだ。そこに伝世の神宝の七支刀がある。全長七四・九センチ、刀身は六五・五センチの鉾形の直刀だ。刀身の左右から三本づつの枝刃を出した計七本の刃がある。その特異な形などから、儀(ぎ)刀(とう)(儀式用の刀)あるいは呪(じゅ)刀(とう)ではないかと考えられている。

 明治の初期に当時の大宮司菅(かん)政友(まさとも)が、刀身に金(きん)象嵌(ぞうがん)銘文が施されていることを発見した。『紀』の神功紀にある「七枝(ななさやの)刀(たち)一口(ひとつ)」はこの七支刀であり、百済からもたらされたものだと指摘したのは明治中期、星野恒によってである。鈴木務・河内国平編著『復元七支刀』のなかに復元の経過が記録されている。刀身・象嵌・文字により、古代の東アジアの緊張関係のなかでの外交があぶり出されることにもなった。

 住(すみ)の江(え)や和泉(いづみ)の街(まち)の七(なな)まちの鍛冶(かぢ)の音きく菜(な)の花の路(みち)       与謝野晶子

 大阪湾沿いの堺ののどかな春の街道に、鍛冶の音がするという歌。七まちにはかつては鉄鋼所や刃物工房が多くあり、鉄砲鍛冶もいたところだ。戦災をのがれた街はいまも美しい。

ながらみ書房『短歌往来』2012年6月号より

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