Browse: Homeエッセイ → 三女神と玉

三女神と玉

 御元山(おもとさん)(御許山)は宇佐神宮の御神体といわれている。昨年の冬、大分県宇佐市に住む友人の招きがあり、登ることができた。

 急斜面と細いくねくね道ばかり。樹林帯のなかのわだちの跡をたどったが、真ん中に土が盛りあがっており、車体の腹を擦ったりしながらの厳しい道中だった。境内には石塔があり、公孫樹の巨木があり、近くにはうっそうとした樹木とひたひたと湧水があり、あきらかに古代祭祀跡の風情があった。

 ここは六四七メートルの九合目あたりの広場。大元神社と大元八坂神社がある。大元神社の拝殿の正面に鳥居があった。そこから上は禁足域で、鉄条網が巻いてあった。頂上にある三つの磐座に、宇佐神宮の三女神が天降ったという。

「石の鳥居にも古代の面影があって、このずしっとした風格には威圧されますね」友人のひとりが声をあげた。

 『日本書紀』神代上・第六段〈第一〉に、「日神(天(あま)照(てらす)大御神)の生みたまへる三女神を以ちて、筑紫洲に降らしめたまふ」と記している。ここでは田(た)心(ごり)姫・湍津(たぎつ)姫・市(いち)杵島(きしま)姫の三柱をさしている。

 もとは御許山を中心に土着の原始信仰があり、そこに三女神がかぶさり、それを宇佐氏が祖神として祀ったのが比売大神(第二殿に祀る三女神)という。『日本書紀』の記述から、宇佐が大和朝廷の勢力圏に入り、北九州における朝廷の拠点の一つとなったことが察せられよう。

 三女神伝承は大分県宇佐市の宇佐神宮のほか、福岡県宗像市の宗像大社のものもある。

 『古事記』大国主神の章に、「大国主神、胸(むな)形(かた)(宗像)の奥つ宮に坐(いま)す神、多紀理毘売(たぎりびめ)命を娶(めと)して生みし子は、阿遅鉏(あぢすき)高日子(たかひこ)根(ねの)神・・・」とある。大国主の嫡后は須世理比売(すせりびめ)なのだが、多紀理比売(田心姫)も后神のひとりである。ここから、古代宗像族と出雲族の交流がうかがえる。もともと玄界灘に浮かぶ沖ノ島(沖津宮)、大島(中津宮)、そして陸地(辺津宮)の三つの宮に祀られてあった神霊が、それぞれ個々の神格としてイメージされて、三女神になったのだろう。

 もう一つ、『筑前国風土記逸文』は『古事記』『日本書紀』とは異なり、宗像の神が天より降りて埼(さき)門山(とやま)におられるとき、青色の玉を奥つ宮の表(しるし)に置き、また長いガラス玉を中つ宮の表に置き、八咫(やた)の鏡を辺つ宮の表に置いた。玉と鏡を神体の形として三宮に納めたことにより身(み)の形(かた)の郡と名づけたのを、のちの人が宗像とあらためたと記されている。青色の玉は碧玉岩製か硬玉製のものであろうが、ここに神の概念ができあがる以前の、原始信仰がほのみえてくる。

 三女神が力を発揮したのには、朝鮮半島や中国大陸との交易が盛んになった背景がある。四世紀末頃からのことだ。海は神秘とロマンにあふれている。だが、無事に航海するためのみちびきを祈願しなければならないほど、玄界灘は難所であったのだ。

 さて、三女神のあらわれた天上界。『古事記』二神の誓約(うけひ)生みの章によれば、須佐之男(すさのを)が持っていた十(と)拳(つか)剣(つるぎ)を天照大御神がうけ、誓約(うけひ)(占い)をして、三つに折り、天の真(ま)名井(ない)の水にふりすすぎ、噛んでから吹きだした息の霧から成り出でたのが、宗像三女神となっている。多紀理比売はそのなかの一柱だ。

 一方、『日本書紀』の神代上・第六段の誓約の章では、素戔嗚尊が昇天するさいに、羽(は)明玉(かるたま)神が献じた瑞八坂瓊之(みつのやさかにの)曲(まが)玉(たま)をもって、天上を訪れている。天照大神と誓約されたとき、天照大神はその素戔嗚尊の瑞八坂瓊之曲玉を食いちぎって吹き出したが、その息から生まれた神が三女神となっている。

 このように伝承も文献も神名も交錯し、一読、混乱するのだが、玉を象徴していることは明らかだ。玉といえば形の丸い、真珠やボールなどがあげられる。美しいものや大切なものをほめるときには、玉声、玉鏡、玉のような赤子などと比喩されてきた。

 玉はタマ(魂・霊)を形象化させたものであり、それに添った心情はそのまま、古代人の持っていた思想に重なる。すべてのものに霊魂がやどり、その作用により、いっさいの物事がめぐり動くものとするアニミズム(有霊感)信仰だ。それらの霊魂は、ふつうは目に見えない気体様のものと判断されていて、自由自在に行動しうるものと理解されていたので、その形は球状のものと考えられた。よって玉を身につけるのは、一般人よりも霊威をもっている象徴となり、他者からも明らかに識別させるための行為でもあった。

  今帰仁(なきじん)のノロの勾玉かぐろ玉ある日わが眼に入りて世を見る   馬場あき子

 今帰仁のノロ家にかんざしや黒々した勾玉が伝世品として残る。注目すべきは、玉(自在に動きまわるタマ(・・))がある日、作者の眼に入り、世間に向けての心眼となったことだ。 

 中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』の一部分を引きたい。神という超越的な存在は、日本人が作った概念のうちでも新しい層に属するとした箇所である。

  「タマ」は「神」とはちがい、増えたり減ったりする。「神」のような特定の性格づけも機能ももたない。明確な名前ももたないし、変幻自在でいっときなにかのかたちであらわれたかと思うと、すぐに別のかたちをしたものに変化していってしまう。「神々」はしばし体系のなかに組織され、国家のために役立つ存在になる。

 最後に、父母の尊い姿を玉にたとえた、防人の歌をあげておきたい。

  

  月日(つくひ)やは過(す)ぐは行(ゆ)けども母父(あもしし)が玉の姿は忘れせなふも

           中臣(なかとみ)部足國(べのたるくに)(万葉集 巻二十・四三七八)

                  ながらみ書房『短歌往来』2012年10月号より

NO COMMENT

COMMENTS ARE CLOSED

© 2009 Yomo Oguro