隼人
大阪市の天王寺区には、二百ほどの寺や神社がある。なかでも谷町筋から松屋町筋にいたる界隈に、寺が集中している。今ではビルや駐車場が増えてしまったが、昭和初期の写真を見れば、入母屋造りの大屋根がならんでいて壮観だ。施餓鬼やお茶会や放生会などの宗教行事には大店の旦那(だん)さんや奥(ごりょ)方(ん)さんたちがよりあい、この界隈は賑わったという。
放生会について、町内の亡長老から聴いていたことを思い出した。放生会とはあらかじめ捕獲した生き物を、自然のなかに放すという不殺生戒をもとにした儀式だ。亀の甲羅に「南無阿弥陀仏」と書き、店の繁盛と従業員やその家族の無病息災まで祈願し、お酒をかけた。僧侶がお経をあげるなか、桶のなかの亀をいっせいに池に放したという。
亀は長生きや繁栄の象徴で、とても親しみやすい生き物だ。捕えた亀をふたたび逃がしてやるといいことをした気分になり、功徳を積むことにもなる。結果、福徳がかえってくるという。時代や寺社によって鯉、蟹、鳩など種類もまちまちであったと聞いた。
『江戸名所図会』の姿見橋(現在の面影橋と神田川)の木版画がある。甲羅を紐でくくられた亀が、土橋の際で吊るされ売られている様子が描写されている。側には鳥かごが置かれ、キセルを持つ露天商の男と子どもとがなにやら話しあっているのが、長閑な風情である。買った亀を紐のまま橋まで持参し、ほどいて逃がす風習があったのだろう。このようにごく普通の行事として、慈悲行が江戸の人びとの暮しに溶け込んでいたことがわかる。
現在、放生会として全国的に知られているのは大分の宇佐八幡宮(中秋祭、十月)、福岡の筥崎八幡宮(放生会(ほうじょうや)、九月)、京都の石清水八幡宮(放生(ほうじょう)大会(だいえ)、十月)があげられる。
筥崎(はこざき)八幡宮では祭りの前にまず、承天寺のお坊さんの参詣がある。これは、仏教がもとにあることをあらわしているのだ。石清水八幡宮では、古来からの神仏習合の儀式として復活し、放生川に魚が放たれる。
神社で放生会が開かれたのは、養老四(七二〇)年で宇佐八幡宮が最初だという。朝廷に八幡神が助力をし、討ち果たした大隅・日向の隼人の霊を鎮めるため、放生供養をすべしとの宣託があって始まったと伝えられる。いまでは仲秋祭と呼ぶ。蜷(にな)や蛤を薦(こも)で包んだものを神饌とともにお供えし、神官があらためて海中に放つのだ。蜷には殺された隼人の霊が宿っているとされている。
これに対し、同じ九州にある福岡の宗像大社の放生会は、隼人の伝承とはかかわりがないというからおもしろい。神功皇后の三韓出兵に際し、宗像大神が助力をつくし多くの軍兵を殺傷したので、放生供養を行うべしとの神託があったと伝えている。それが起源の、海上神幸の「みあれ祭」は有名だ。
私は仲秋祭には訪れてはいないが、地元の友人にゆかりの場所を案内してもらうことができた。宇佐神宮の西の勅使道を約五〇〇メートル行った旧道沿いに、百体神社や化粧井戸や凶首塚などの史蹟が並んであった。
化粧井戸は百体神社に祀られた隼人の霊を慰めるため、放生会で使われる傀儡師の人形を洗った場所だと伝わる。隼人らはその人形に見とれ、油断している間に討たれた。井戸を覗いたが空っぽだった。だが、どことなく空気が重いと感じたのは、私だけではなかった。百体社の神殿の朱塗りは色あせてさびれた感じだったが、意外にも明るかった。ここに大隅・日向の隼人の、百体の霊が祀られているという。
百体がやがて百太夫といわれるようになって、傀儡師の神から芸能漂泊民の神へと変化し、兵庫県の西宮神社末社にも鎮座した。傀儡師の人形(でこ)まわしを夷(えびす)まわしともいった。夷信仰と百太夫信仰は次第に習合し、文楽が起るもととなるのである。
凶首塚は前方後円墳群が六世紀中頃で途絶えたあとに造られた、豪族の墓だという。古墳築造と隼人の乱の伝承との年代があわないと聞いたため、場所確認のみした。
古代の南九州には、クマソという人びとがいたという。『古事記』には熊曾(くまそ)、『日本書紀』には熊襲と記されている。
熊曾は隼人とも呼ばれる。熊曾(・・)は説話などにおいて、権力に服従しない人びとに使われており、いかにも野蛮な感じがする。隼人(・・)は歴史の記録のなかで使われる呼び名であることが多く、スマートな印象をうける。
海幸彦・山幸彦の神話は、映像的で詩情がゆたかである。兄の海幸彦が隼人の祖として、弟に仕える話である。『記』では「昼夜(ひるよる)の守護人(まもりびと)と為(し)て仕え奉(まつ)らむ」、『紀』神代下・第十段一書第二では「今より以往(ゆくさき)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の八十(やそ)連属(つつき)、恒(つね)に汝(いまし)の俳人(わざひと)と為(な)らむ。一に云はく、狗人(いぬひと)といふ」「諸(もろもろ)の隼人等、今に至るまで天皇の宮垣(みかき)の傍(もと)を離れず、吠ゆる狗に代はりて事(つか)へ奉(まつ)れる者なり」とある。『紀』神代下・第十段一書第四では、海幸彦の溺れるさまを道化のように模したものは、犬吠えや隼人舞のもととなっており、早い時期に大和朝廷につかえた由来を語るものである。
ほかにも、『記』倭(やまと)建(たける)命(のみこと)(『紀』は日本(やまと)武(たける)尊(のみこと)と表記)が女装をし、熊曾建兄弟二人を倒した。また、『記紀』の景行天皇・仲哀天皇には、熊襲を征討する話が登場する。
隼人(はやひと)の名に負ふ夜声(よごゑ)いちしろくわが名は告(の)りつ妻と恃(たの)ませ
『柿本人麻呂歌集』 (『万葉集』巻十一・二四九七)
宮門警備の隼人の、あの有名な夜声がはっきり聴こえるように、私も名を告げましたので、妻と頼りにしてくださいという意味だ。
大隅隼人の裔にあたる、現代歌人の作をあげておきたい。
大いなる月の輝き滴れば祖のごとくに吠(はい)声(せい)をせむ 森岡千賀子
ながらみ書房『短歌往来』2012年11月号より
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