Browse: Homeエッセイ → 遊女

遊女

 飛田新地は、大阪市西成区にある色街だ。
 大正時代に築かれた日本最大級の遊廓といわれ、いまも一六〇軒ほどが料亭として店をはる。一九五八年の売春防止法施行の後も、客と仲居の自由恋愛ということで、売春防止法を逃れることができたためである。約四百メートル四方エリアのなか、北側に青春通りやかわい子ちゃん通り、南側に年増通りや妖怪通りや年金通りがある。
「兄ちゃん、ちょっと遊ばへんか?」「うん、あちこち見てからや」「また、戻ってきてな。待ってるよって」
 店のなかから、客引きのおばさんが前を通る男に声をかける。
 夜になると、どの店の玄関も明るくライトアップされ、赤絨毯や椅子に坐った若い娘たちの姿をぼうっと浮きあがらせている。外灯は暗く、通りをゆく人の互いの顔がよく判らない。どの店の玄関にも娘と客引きのおばさんのペアが、通りの男を誘っていた。
 一軒の店を見た。蘭の花鉢とキティちゃんのライトで飾られた玄関には、ロングヘヤ―に白いワンピースの娘がひとり、ややうつむき加減に坐っていた。脇にはエプロンにつっかけ姿のおばさんがひとり、ちょうど前を通ったジーンズ男を呼びこんだ。男は靴を脱ぐと、娘に案内されて二階に消えた。するとすぐ、別のロングヘアーにピンクのブラウスの娘がその席に着いた。遠目には同じ娘が、客待ちをしているように見える。 
 ときおり、飛田で遊ぶという知人がいる。知人によると、日本が好景気のころは外国の娘が多かったが、いまは都合のいい時間だけの、アルバイトやパートの主婦や学生もいるという。座布団二枚の上の、二十分限りのインスタント恋愛。二万円渡してお釣りを受けとり、店を出るときに「こんどいつ?待ってるから」といわれてハマったらしい。
 本来の料亭として、「鯛よし百番」は営業する。大正中期に遊廓として建てられた建物そのままを使用しており、二〇〇〇年に国の登録有形文化財となった。中には金・銀で彩色された欄間飾り、日光の陽明門に見立てた待合室、日本橋と書かれた真っ赤な階段、天神祭を描写した壁画など、まことにきらびやかだ。各部屋もこまごまと贅がつくされ、見ているだけで満腹する。ここにたどりつくまでの、通天閣のそばの道路で酒を飲んで寝ていた日雇いのおっさん、二度漬け禁止の串カツ屋のサッカリン入りソースの匂い、濃い化粧に巻き毛のかつらをかぶった花売りのお姉さん風のお兄さんなど、いっぺんに頭から離れるほどの、まさに新世界だった。
  山城国の与(よ)渡(ど)津から大きな川を下って西へ一日ゆくと、河(か)陽(や)(淀川)である。
  山陽、南海、西海の三道をゆききする者で、ここを通らぬ者はない。・・・分流が河内国へ向かうと江口である。摂津国へ到ると神崎、蟹嶋等の地がある。門を ならべ戸を連ね、人家の絶えることがない。娼女が群をなしている。小さい舟にのって旅船に近づき、枕席をすすめる。その声はたなびく雲をとどめ、水風に漂っている。通るものはことごとく、家のことなど忘れてしまう。                                                                             大江匡房『遊女記』
 中世のころは水路が発達しており、もっぱら客引きは舟だった。江口、神崎あたりの川面に、遊女たちのたえなる歌声が聞こえていたことが記される。ここを通った旅びとは、故郷を忘れてとりこになったという。海の岩礁から美しい歌声で、航行中の船乗りを惑わした、ギリシア神話のセイレーンのようだ。
   十六の女(むすめ)は遊女(うかれめ)夜発(やはつ)の長者、江口・河尻の好(いろ)色(このみ)なり。・・・夜は舷を叩いて、心を往還の客(まろうど)に懸(か)く、・・・声は頻伽(びんが)の如く、貌(かたち)は天女の若し。
                              藤原明衡『新猿楽記』
 浄土のような美声の鳥の迦陵頻伽や天女にたとえて、この世の外の美しさを描く。
 江口は大阪市東淀川区の淀川と神崎川との分岐点、神崎は尼崎市の神崎川と猪名川が合流する付近にある。
江口には江口の君(妙)が草創と伝わる、「宝林山普賢院寂光寺」がある。寺の由緒では平(たいら)資(とも)盛(もり)の息女で、平家没落後、当地に身を寄せたがやがて遊女になったという。
 境内の一角に、君塚と西行塚がある。ほかに『新古今和歌集』にも収集される問答歌の石碑も建っている。

  世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめかりのやどりを惜(を)しむ君かな 西行法師
  世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと心とむなと思ふばかりぞ     遊女妙

 
 一一六七年、西行法師が天王寺に参拝してこの地を通ったとき、俄(にわ)か雨が降った。江口の君に雨宿りの許しを願ったが断られた。法師が歌を詠んだところ、江口の君も詠み返して、ついには歌を楽しみながら一夜を明かしたという伝承の場所である。
 『遊女記』には江口・神崎・蟹島の遊女は「衣通姫の後身なり」とある。衣通姫は『日本書紀』によれば、允恭天皇の皇后の忍坂(おしさか)大中(おほなかつ)姫(ひめ)の妹であり、『古事記』では允恭天皇の皇女である。どちらも遊女の祖が皇族というこ
とだ。ここからも、「遊」の意味が現在の認識とはずいぶん異なることがわかる。
 庭隅にはひっそりと、お松の墓があった。松は「待つ」から、遊女の隠語になったという。小さな墓のなかに、この地で逝った名も無きお松たちが眠っているのだろう。
 寺の裏側を登って、土手に立った。淀川の川面は静かで、けだるい風が吹いているのみだった。
 牧水の一首が切なく浮かんだ。

 うら若き越後生まれのおいらんの冷たき肌を愛(め)づる朝かな      若山牧水
                ながらみ書房『短歌往来』2013年2月号より

NO COMMENT

COMMENTS ARE CLOSED

© 2009 Yomo Oguro