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古座川三種

古座川一枚岩

 海岸線から直角に古座川(こざがわ)に沿って五分も車を走らせると、もはや山中だ。海の気配はすでにない。

 降り出して二時間、雨はますますの勢いだ。丘陵のいたるところから霧が噴きあがり、鈴なりの柚子の木立も、栴檀(せんだん)並木の街道も、炭焼きの窯も、滝の拝(はい)のコンピラさんも、古座川筋にあるすべてのものを視界から隠していった。

 紀南地方は温暖多雨。しかし、枯木灘(かれきなだ)沿岸と熊野灘沿岸とでは大きく違う。古座川周辺は南東に熊野灘にひらかれているため、低気圧にともなった湿潤な南東風を、真っ向から受けるのだ。

 火成岩でできた奇岩や巨岩の並ぶ峡谷のひとところ、一枚岩(いちまいいわ)がそびえていた。高さ一〇〇メートル、幅五〇〇メートルもある大きさ。司馬遼太郎は『街道をゆく』のなかで「山肌は大きな嫁入り饅頭(まんじゅう)を庖丁で真二つに割ったようなあざやかな平面を垂直に見せつつ・・・・」と書いた。

 その垂直の断面を水が流れて岩肌全体をおおうと、一枚岩全体が光って大きな鏡面のように見えたり、雨水が集まってあちこちの岩穴から噴き出して流れた水は、太いロープを垂らしたように見えたりしていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。この世ではないところをただよっている気持ちのまま、私の体内の方位磁石はあやしくなっていった。ここは霧と雨と岩とで創られた、草や虫たちの楽園だ。じっと目をこらさなければ姿を見せない、希少種のものたちがささめきあっている。

七月、赤い糸屑ほどのハッチョウトンボがセリの葉蔭からとびだした。

八月、早朝からルーミスシジミが青紫の翅をきらめかせ、森から水を飲みにおりてきた。

九月、キノクニスズカケが蔓と葉との間から、白の花穂をほうほうとひらいていた。

十一月初旬、岩肌のわずかな窪みに吹きたまった土や苔に根をはり、斜面にしがみつく小さな命がたまらなく見たくなった。ヘリトリゴケ・ミギワトダシバ、キイジョウロウホトトギス、セッコク、キイイトラッキョウ・・・・・・。そのけなげに生きる姿がいとしい。

 「キイイトラッキョウね、岩に根が張れるんは稀(まれ)なんよ。上がわの花が種を落とすとき、下がわのミギワトダシバの根っこにうまくひっかかったら、そこからやっと根が出せるていうほどタイミング要るもんよ。今日は双眼鏡でも見えんよ。家(うち)に来んかい?まだ鉢に咲いたぁるよ」

 そう誘ってくれたのは、ジーンズに白シャツすがたの谷幸子さん(五六歳)。南紀生物同好会会員で在野の昆虫植物研究者の谷さんはこの地にうまれ、中学生のころから捕虫網を持って野山を駈けまわり、今もこの地にとどまって観察をつづける、生粋の古座川っ子だ。

 六年前、故・松下弘さんを講師に自然観察をしていたとき、一枚岩から土手に滑り落ちて生き延びていた一株が、工事中のブルドーザーによって捨てられかけた。あわやのところを救い出し、大切に鉢植えにしておいたものなのだ。

 細長くふわふわ伸ばした葉、高さ三〇センチの花茎、三~一〇個くらいの小粒のコンペイトウみたいな赤紫の花や三角の種がたよりなげだ。葉の中心が空洞になっているのが特徴であり、ツンとした香りはさすがにラッキョウの風格がある。

 キイイトラッキョウ〔ユリ科〕・キノクニスズカケ〔ゴマノハグサ科〕、オオママコナ〔同〕をあわせて「古座川三種」と呼ぶ。いずれも町内産新種植物の絶滅危惧(きぐ)種だ。

 谷さんはオオママコナを発見した。ウバメガシ林のなか、見なれないママコナ属の一種が群生しているのに注目していたという。平成四年、写真と標本採取によって『植物分類地図』誌十二月発行に発表された。

 古座川のハイジ姉さん。私は彼女をひそかにそう名付けた。来年こそ、ハイジ姉さんのあとを追いかけ、オオママコナを見に行こうと決めた。

  古座川(こざがわ)は山襞ひらくジッパーか蜜蜂のびびつ蜻蛉のぶぶつ 

 (写真撮影: 楠本弘児)

               本阿弥書店『熊野の森だより』より

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