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勾玉

 飾棚の上は、物でいっぱいになっている。素焼のピラミッド型の置物、赤いビロード袋に入った白い硝子玉、瓶入りの水銀、黒曜石の欠けらなど、怪しげなものばかりだ。ひとつづつ手に取ると、何かいいたげな表情があり、気になって手放せない。「どんなもんでも貯えるんやなあ」と夫に呆れられるが、性懲りもなく積みあげるのだ。

 こんどは遠縁の人から勾玉をもらった。長さ四センチの暗緑色の翡翠だ。翡翠は晩春の木々を映した湖のように、静かな色を澱ませている。獣の爪みたいに曲がった形で、頭部の穿孔には紐が通されていた。紐を頸にかけると尾部が外に尖るようになる。その野性的で異様な気配が、ことのほか気にいった。

 近ごろ雑貨店などで売られる勾玉は、丸い可愛いものや硝子のきらきらしたものなど、ブレスレットやストラップに加工されておしゃれっぽい。若者層にも広く愛されている。

 神話の絵には多く、勾玉を身につける習俗を知ることができる。どうしてこんなにも勾玉は、人びとの心をときめかせてきたのだろうか。 

 考古学的に見ると、旧石器時代という気の遠くなる頃にまでさかのぼる。昨今の装飾用というよりは、呪的で宗教的な意味があり、また、護符のように身を守るものとして用いられたようである。巨獣の牙や爪や骨などを加工し、幾重にも頸や腕に巻くなどすれば、その獣の猛威や威力そのものを、身につけられると考えられていたからだ。だがそれだけの解釈では、ちょっと味気ない。もっと重要な意味付けがあるのかもしれない。 

神話の天孫降臨において、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)が天照大神から授けられた三種の神器といえば、鏡(八咫(やたの)鏡(かがみ))・刀(天(あめの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ))・玉(八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま))をいう。神話にあらわれた神器と同一とされ、あるいはそれに見立てられ、歴代天皇が受けついできた宝物だ。『日本書紀』巻第二・神代下の国譲りには、司令神の高皇産(たかむす)霊(ひの)尊(みこと)に説き伏せられ、出雲の大(おお)己(な)貴(むちの)神(かみ)は「瑞(みず)の八坂(やさか)瓊(に)」をもって隠退した話がある。これは出雲族の祖神の魂を、「瑞の八坂瓊(勾玉)」としてあらわしたものとおもわれる。

 ほかにも「八尺勾璁(やさかにのまがたま)」「八尺瓊勾玉」「八(や)尺(さかにの)勾璁之(まがたまの)五百津之(いほつの)美須麻流之(みすまるの)珠(たま)」などがあり、これらはすべて勾玉のことを指(さ)している。そのうちの、「八尺勾璁」「八尺瓊勾玉」とは勾玉そのものであり、「美須麻流之珠」は勾玉と一緒に菅玉・丸玉・切子玉・棗(なつめ)玉を、ネックレス状に連ねた玉を総称している。「八尺(坂)」は想定外の長大なもの、「瓊」は玉の古語であることから、「八坂瓊勾玉」とは「長大なまがれる玉」の意味となる。このことは、長大なものが貴ばれたことを意味するだろう。

 水野祐著『勾玉』にはその形態から、魚、胎児、釣針、獣牙、巴、月などを模したことが多く想像されているが、もっと重要なことを推察している。昼の世界と夜の世界を分治するときの、日・月両神の関係を示したものではないかと、神話から両神抗争説話の原形の片鱗をさぐっている。古代、日食と月食時における日神・月神の再現をねがう祀りに、鏡を日神像に勾玉を月神の象徴したのではないかと、古代日本の月神崇拝説を綿密に深めている。勾玉は日本で造られ、朝鮮へも伝えた説にも展開している。

 『古事記』上巻・葦原(あしはらの)中国(なかつくに)平定の章に、天稚彦が亡くなった後、下照姫が夷振(ひなぶり)の歌曲として詠うが、この歌からも玉の貴さがわかる。

  

  天(あめ)なるや 弟(おと)棚機(たなばた)の 項(うな)がせる 玉の御(み)統(すまる)

  御統に 穴(あな)玉(だま)はや み谷 二(ふた)渡らす 

    阿(あ)治(ぢ)志(し)貴(き) 高日子(たかひこ)根(ね)の神そ

 「天にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つ越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根の神なのである」と解釈できる。

 雨にあらわれた大気と、こぼれるひかりの透明感が美しい短歌がある。

    夕立の過ぎし笹生にひかりこぼれ言葉ははじめ白き勾玉        内藤明

 島根県松江市の宍道湖畔に、勾玉の伝承館がある。玉造における古代攻玉の文化を一望できる展示室があり、原石、使用工具、採掘から製造工程、歴史資料などが常設展示されている。玄関ホールには大きな碧玉の原石が置かれ、目をうばわれた。

 出雲の忌部の玉作部は古墳時代中期に、碧玉の大産地に定住し、世襲的に碧玉製勾玉の製作をしてきた。ことに出雲より御祈(みほぎ)玉(だま)として長く朝廷にも献上され、以後六世紀間にもわたり、勾玉造りは存続してきたという。

 ガラス張りの工房には瑪瑙細工師が、黙々と仕事をこなしていた。青瑪瑙の原石が仕分けられていた。工房には五名の瑪瑙細工師がおり、私が出会ったのは若くしてベテランの村田誠志さんだった。石の彫刻に惹かれたのがきっかけで、この道に入られた。先輩から「石の彫刻の技術の全てが凝縮されている」といわれ、心が決まったという。

 ①原石の採掘②原石の切断③荒作り④穿孔⑤荒磨き⑥仕上げを実体験をさせていただきながら、説明を聞くことができた。出雲形の勾玉はどこから眺めても丸くて優美なところに特徴がある。村田さんの繊細な指先の動きで研磨を続ける姿は、実に幸せそうだ。

 資料館の南には、花仙山(かせんざん)(約、二〇〇メートル)がある。この中に碧玉や瑪瑙が脈状にできているという。約一五〇〇万年前に地下から噴出した安山岩(あんざんがん)の溶岩が、固まってできた山だ。去年の秋に鉱脈が発見され採掘された跡なのだが、村田さんに採掘跡に案内をしてもらった。赤い粘土質の下層に緑の石の欠けらが残っていた。私はあまりの自然の美しさに絶句してしまった。

                  ながらみ書房『短歌往来』2013年5月号より

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