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ヒダル神

那智勝浦-リュウビンタイ

黒潮うねる大海に日差しがかかると、冬もあおあおした照葉樹の山の谷底へもにぶく反射する。遠目にはやすらぎの冬の緑。だがひとたびその中へ迷いこむと、瘴気(しょうき)が待ち伏せをしている。私の場合、妙法山(みょうほうざん)のシャクナゲの根方を越えてからおかしくなった。
とつぜんに頭の真ん中がカーッと熱くなったかとおもうと、生あくびが止まらなくなった。身体がずしんと重くなり、二本の足が互いにからんでコントロールが効かず、歩幅が乱れはじめた。曲がり道をゆく曲がり足。そうなるとすでに身体には私以外の別モノがはいりこんでいるのだ。
むしょうに腹が減った。リュックの菓子パンをいきなり三個食べてもまだおむすびを探し、ペットボトルの栓をねじる間さえもどかしくてならなかった。だるい身体に食い意地がはり、どうにもこうにも動けなくなった。
「あっ、ヒダルにやられたな」
同行の誰かが背中から錫杖(しゃくじょう)を振ってくれた。
ジャン、ジャーラ、ジャン、ジャーラ、
ジャン、ジャーラ、ジャン、ジャーラ
ヒダル神(餓鬼(がき)霊(れい))がぽんと私からはずれたとき、嘘のように足腰が軽くなった。
「ここから、早く立ち去れ」とばかりに、羊歯(しだ)のシシガシラは疾風の力で追い立てた。私の身体を寒気がかけのぼり、背骨から頭のてっぺんに走りぬけた。と同時に、腐った樹液が匂いがぷーんとした。ヒダル神は完全にぬけたのだ。
瀧はどろんどろろんと水を落とし、飛沫のなかに虹をかたくとじこめていた。枯れていた苔や蔓にも生気がわずかによみがえり、それでも厳しい風にまた身をちぢめていた。
南の斜(なだ)りにある廃村の庭には、なかば野生化した梅が小さな悲鳴のように白い花を咲かせていた。今年の冬はきびしい寒さで、日本列島はぐぐっと冷えしきっている。
栄養分がゆたかに体内に増える(・・・)ことの、「冬」。熊野の山々は枯葉の養分と水とをたっぷり含み、地中で眠る蛇が輪をほどきはじめる春をひたすら待っているのだ。山そのものが伸びをして大きく立ちあがらんとする前の静けさには、声をひそめた歓(よろこ)びがみちみちている。
ヒダル神などなんのその。はりつめた二月の気息(きそく)に惹かれると、古人がそうであったように、再生儀礼の地へ感応する旅がむしょうにしたくなるのだ。

死者たちは水に目覚めて蟇のこゑ山鼠のこゑに笑ひあふ森

(写真撮影:楠本弘児)

本阿弥書店『熊野の森だより』より

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