戻り鰹とキイジョウロウホトトギス
絶え間なく降り続く初秋の長雨。 紀伊半島の南部にも遅い季の移ろいがやって来た。沖合いでは水温の低下にともなって鰹(かつお)が南下する。
鰹はサバ科カツオ属。背の側が青黒くて模様がなく、腹の側に数本の線があるのが特徴だ。田辺、すさみ、串本の漁港をまわると、水揚げされたばかりのまるまる太った鰹が虹色をまとって銀に光るのが見られる。黒潮から生まれた宝石といってもいい耀きだ。
秋の「戻り鰹(もどりがつお)」は黒潮にのって太平洋岸を北上する、春の「初鰹(はつがつお)」に対しての呼び名だ。さっぱり系の味わいの初鰹に比べ、戻り鰹は脂の乗ったこってり系の味わいで、とろ鰹ともいわれる。新鮮なひと切れは、脂が溶けて喉にするりと滑り落ちる。
私はこの時期、なめろうの茶漬けがむしょうに食べたくなる。なめろうは鰹の身と臓物を味噌、葱、生姜のみじん切りを混ぜ、粘りがでるまで包丁でたたいて作る。それとともにタレ (胡麻・味噌・醤油) に漬け込んだ鰹の切り身を、あつあつの新米御飯にのせ、海苔に山葵(わさび)を添えたところに焙(ほう)じ茶をそそぐ。ガサガサッと腹に流しこむと、黒潮の本流を渡りきる漁師のような豪快な気分になる。腹にこたえる味わいだ。
『日本書紀』には、景行天皇が舟で紀伊国沖を船で通ったとき、角で飾った弓で海面をかきまわすと鰹がかかったと記されてある。ビッグ・ブランドなのだ。
現代の漁法は舟形の潜行板(せんこうばん)と疑似餌(ルアー)を組み合わせるケンケン漁だ。明治のころ、串本(当時の田並村)からのハワイ移民によって伝えられた、曵縄(ひきあみ)一本釣りの漁法である。疑似餌を躍(おど)らせ魚を誘って釣り上げるようすから名づけたとも、鳥の羽毛のことだとも言われている。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」は俳人、山口素堂の春の句。あまりにも有名だ。山ホトトギスは野鳥のことだが、野草にもユリ科の多年草のホトトギスがある。花びらの紫色の斑紋(はんもん)がその胸の紋様と似ていることから名付けられた。珍しいものにはキイジョウロウホトトギスがある。環境庁の絶滅危急種に指定された、紀伊半島固有の植物だ。
黒潮は熱帯地方からのおおいなるエネルギーを運んでくる。黒潮のもたらす気候と雨量により、発達した森林そのものが熊野特有の湿潤気候をかもしだしている。そこに群生して垂れさがっているのだ。
古くより古座川、那智山、熊野川渓谷など深山幽谷の湿潤な岩壁にのみ自生している。そこで私は熊野の秋を、「目にはキイジョウロウホトトギス 腹には戻り鰹」とたたえたい。
いつのことだったか、山岳修験者に地図にない幻の滝を案内してもらったことがあった。大岩を越え、木の根を踏みしめ、土砂崩れを避けるための高巻きの登山であった。渓谷の奥に現れたのは思いのほかの小滝。細い針のような雫を撒き散らして、鋭く落水していた。滝壷近くを双眼鏡でのぞくとほんのわずかな薄陽のなかで、ダイモンジやイワタバコとならびキイジョウロウホトトギスが岩肌にしがみついていた。そこは鹿でさえも近寄れない青苔の急斜面。長年の乱獲により目にすることがなくなっていた花と、思わぬところで出会えたのだ。艶のある濃い緑の葉は垂れさがり、鮮やかな黄色の花は鈴の形にうつむいて揺れていた。その雅やかでつつましい風情はまさに山郷(やまざと)の貴婦人だ。
「どうか、お忘れくださいますように」そう言われたかに見え、私は双眼鏡をおろした。
半日陰(はんひかげ)以外は花を咲かさざる上臈杜鵑草(じやうらふほととぎす)の拒否権
塚本邦雄
十月初旬、枯木灘(かれきなだ)海岸から、県道周参見(すさみ)古座(こざ)線佐本(さもと)方面に車で走った。 すさみ町では自生はしていなかったが隣の古座川町から持ち込まれた一本から佐本の山中茂さん(七四歳)を始めとして地元の人びと、Ⅰターン者グループ「佐本スリーサウンズクラブ」(桜井明代表)、山本啓介さん(七一歳)たちの努力でいまも保護、増殖され続けている。
「琴の滝荘」の看板を見ながら林道を下ると、「紀伊上臈ホトトギス園」に着く。そこには花守り人、山本啓介さん(七一歳)がおられる。
遮光ネットの薄暗い一角、六十平方メートルの石垣いちめんに、噴き出すように茂っている。一本の茎が一メートル近くもあり、そこに三〇個以上の花を付けたものが、千株もあるのだから「見事!」というほかはない。私は目を撃たれたように呆然となった。花の内側にはホトトギス特有の赤紫色の斑点があり、雄しべ雌しべをひそませている。そこにエビの腰付きをした蛾(ガ)のホウジャクが、ホバリングをしながら蜜を吸っていた。今年もきっとたくさん種が収穫できるだろう。
「遮光ネットで暗(くろ)うしすぎたら花芽がつかんし、明るかったら葉が日焼けするさか、こまめに調節せんならんでのう」
花が咲けば喜び、少なければ心配するのが山本さんの暮らしの流儀。花守り人のその簡潔さがいい。日々の忙しさに捨ててきた時間の襞は、しらずしらずに自分自身の足場さえぐらつかせる。ここに坐っているだけで、身からおびただしい量の錆がぽろぽろ落ちてゆくように思えた。奥さんの振る舞ってくれた湧き水のコーヒーはさわやかな甘さ。いきなりお代わりを三杯した。気づけば花と同じ水を私も飲んでいた。
わたしいま紀伊上臈杜鵑草(きいのじやうらふほととぎす)口とがらせて首をふるのみ
本阿弥書店『熊野の森だより』より
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